厳選!徒然


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2001年12月24日(月) 子どもがダウン症であること

 プリントを整理していたところ、1年目で新生児科にいたときに分けてもらった資料を見つけた。日本ダウン症協会福岡支部が作成したもので、公開の許可は得ていないが、素晴らしい文章なのでたくさんの人に見てもらいたく、その一部を公開したいと思う。
 “ダウン症をもった子どもたち お誕生日おめでとう!
  家族のみなさんおめでとう!
  私たちは心からそう言います
  病気との闘いがあったり…
  『障害』のことばにおびえたり…
  ゆっくりとした成長が不安だったり…
  たしかにいろいろあるかもしれないけれど
  子育てってそんなもの
  子どもを産むってことは
  何がおこるかわからないけど、そんなこんなはとりあえず
  引き受けようと覚悟することかも知れないな
  でも実はそんな覚悟なんかしなくても
  予期せぬ出来事、降ってわいたような事態にも人は
  日々を重ねる中で誰もが暮らし合う力をもっているのだとわかってくる
  それまで見えなかった風景
  子どもに育てられ、そして癒される喜び
  『障害児』との暮らし合いが、子育てのバリエーションにすぎないと
  たとえ気付かなくても、ほら、あなたも結構やっている
  私がかつて母の命に守られて命を授かったように
  子どもの命もまた授かりもの
  命の重さは量りようも、比べようもありはしない”
 リンク:日本ダウン症ネットワーク福岡ダウン症ネットワーク


2001年11月10日(土) 素敵な笑顔

 直樹くんのお母さんからメールをいただきました。
 『徒然の人気投票でトップとなっていた“子供の死”を久しぶりに読みました。以前拝見したのは、直樹が元気だった頃でした。
  直樹が入院した一般病棟で最初にお友だちが亡くなったときも、そのお母さまが似たような事をおっしゃっていました。心停止の状態でICU入りし、もう安心か?という所まで回復した晩、お母さんが「頑張って疲れたね、きょうはもうゆっくり休んで良いよ」と声をかけた時から心拍数がどんどん下がって、そのまま亡くなってしまったそうです。
 直樹が亡くなる数時間前、病室で直樹と私がふたりきりになる場面がありました。直樹に近づいて「今までありがとうね」というと、「ほとんど意識はないはず」と言われ目もつぶっていた直樹が、ほんの一瞬微笑んだんです。アシドーシスとナルコーシスでひどい状態で、物理的にはとても笑顔を見せられるような状態じゃないことは私にもわかりました・・・。でも、錯覚と言われるかも知れませんが、当の私自身がびっくりしてしまったほど、直樹の笑顔は素敵でした。旗手先生のお話を拝見して、またそのことを想い出しました。お医者さんって、このたぐいのお話は信じていらっしゃるのでしょうか。私はかなり現実的だと思われる直樹の主治医の先生にはこのお話はしなかったのですが、もしかしたらしてもよかったのかなぁ・・・と最近になって思い始めました。いずれその先生にはお手紙を書こうと思っていますが、そのときには直樹の笑顔の事もちょっとお知らせしようかな?と思います。』
 『その笑顔はお母さんだけにみせた本当の笑顔だと思います。間違いありません。お母さんが一生懸命世話をしてくれて、看病をしてくれた感謝の思いを、笑顔という形で表してくれたのでしょう。』
 直樹くんのHP「直樹の毎日」(相互リンク)はhttp://www.geocities.co.jp/SweetHome/1284/


2001年5月20日(日) 天使のような表情 

 みなさんは本当に天使のような表情を見たことがありますか。寝顔なんてそれそのもの、って感じがするし、夢中で遊んでいるときもそうである。でも私はそんな表情は見たくない。私が見る時って…。
 感染症病棟に訪れた時に、急患が入っていた。感染後の突然の心不全。「いいところに来た!イソゾール(麻酔薬)を取ってきてくれ。」それだけでその子の状況がわかった。レントゲンもそれを裏付けていた。その女の子はその後ICUに入り全身管理をすることになった。
 3か月後、4年の人生を終えた。おそるべき病気、心筋症。最後のお別れの時の素顔は、最初に会った時とは違う穏やかな表情をしていた。
 私が小児科の学生実習中に入院した患者がいた。体中びらん(潰瘍)ができて、部屋中に嫌なにおいが立ちこめていた。前日は出血が止まらずに危険な状態に陥った。その後、なかなか原因がわからないまま、時間が過ぎていったが、何回か行った皮膚生検で血液の腫瘍と診断され治療をし、退院できるくらいまで改善していた。
 2年目になって大学病院に帰ってきた時、彼は再入院していた。最初に見たときと違い、皮膚は一部を除いて良くなっていた。でも腫瘍は…。
 その彼も18年の人生を終えた。病魔と闘った4年間。その壮絶さとは違い、早朝に静かに亡くなった。あの病気さえなければ、彼はそれまでの14年の続きを、高校生活、社会人生活、いろんなことを楽しむことができたのだろうに…。
 彼を見送って、私が病院を離れる時、3才ぐらいの子供が楽しそうに病院の方に向かっていた。たぶんお見舞いに行くのだろう。ちょっとした旅行気分かな?
 私はそんな楽しそうな表情をその2人では見ることはできなかった。お別れの時にあんな天使のような表情なんて見せるなんて。もう見せなくていいから…。


2001年1月14日(日) 種まく子供たち

 あの明るさは何だったのだろうか。
 一人の女性が亡くなった。11月終わり頃このHPに遊びに来てくれた女の子。
 彼女は14年間白血病と闘っていた。白血病だけではない。拡張型心筋症、脳腫瘍など大変な病気を背負っていた。でも彼女は明るかった。彼女には何か周りを落ち着かせてくれる暖かさがあった。そう、春の香といった感じか。あの明るさは“春”ではなかったか。
 彼女自身は二十一世紀の春を感じることはなかった。しかし彼女が触れた心には彼女の春が今も、ずっと生きている。辛くても苦しくても、解決という“春”に導いてくれるでしょう。
 将来は小児科医になると言っていた。どんな小児科医になっていただろう。
 四月に本『種まく子供たち』が出版される。
 この本が病気と闘っている子供たちの支えとなり、そして彼女の小児科医としてのもう一つの人生が始まる。子供たちにたくさんの“春”をまいて、夢を育ててくれるでしょう。
 14歳の若い小児科医が今生まれようとしている。四月には桜の花を持ってその小児科医の誕生を祝いたい。


2000年11月19日(日) スタートの場所

 感染症病棟での研修を終えた。実はこの病棟は私のスタートであった。
 中学3年の時、私はその場所にいた。1番の友達が入院していたのだ。小学5年の時から仲良くなり、彼の影響でいじめられることもなかった。勉強面でも刺激を受けた。しかし彼は病気がちで週一回検査のため学校を休み、そして中学2年の頃から長期入院した。ある日そのお母さんから「面会する時間がありますか?」という電話が来た。何もわからなかった私は「時間がないです」と答えたのだが、親がその電話の意味を知ってその病棟に行くことになった。
 彼の姿は変わっていた。お腹が大きく膨れていた。顔色も悪かった。ちょっと声をかけると、彼は自分が分かったみたいだった。
 廊下に出て今の状態を聞いた。涙が出た。
 5月7日、彼は亡くなった。15才の誕生日は迎えることはできなかった。
 それ以来、私はその大学の医学部で勉強をし、医者になろうと思った。無事その大学で勉強をし医者になり、その病棟でたくさんの患者をみて医療を行った。みんな元気になってくれた。とても楽しかった。
 中学生の時に思ったあの「医者になりたい」という気持ちをこれからも大切にしたい。


2000年7月2日(日) 2人の涙

 二人の赤ちゃんの涙を見た。
 お腹の中で大きくなれなかった赤ちゃん。検査で染色体異常などいろいろ病気が見つかり、生まれてからも管理が大変であることが予想された。予想通り管理は大変で、赤ちゃんにはちょっと眠ってもらうことにした。赤ちゃんが苦しくて暴れると、さらに状態が悪くなり悪循環になるからだ。赤ちゃんはピクリとも動かなくなった。動いているのは人工呼吸で膨らんでいる胸だけ。ところがある時ふと見ると、涙を流している。何が苦しいの?どうして欲しいの?わかることは彼女が病気と闘っていること。見かけは動かないちっちゃな赤ちゃんであるが、しっかりと生きている。横には何もできないしわからない若い医者が…。
 もう1人。お腹の中で、生まれても長く生きられない病気であることがわかった赤ちゃん。生まれても人工呼吸や蘇生を行わないことを家族と決めていた。することは刺激、酸素投与、口に入っている羊水を吸引することだけ。帝王切開にて出生。しかし泣かない。色も悪い。ところがしばらくすると小さな声で泣き出した。見る見るうちに状態が改善。本当に予後の悪い病気?と思わせる回復ぶりだった。ミルクをごくごく飲む姿、お腹がすいて大粒の涙を流す姿。その表情をみて、頑張って欲しいと思ったが、この子にとって頑張って生きることが本当にいいことなのか…。彼女は生後2日でこの世を去った。
 私は2人の涙を見た。その涙は私の心に深く残った。その涙は何だったのだろうか。
 2人、状況は違っていたが生きていた。一生懸命生きていた。あの涙は生きている証(あかし)ではなかったのか。
 2人の涙を見て、一緒に胸が熱くなり涙を流すことができて、生きることを感じられて…。2人に感謝したい。


2000年1月19日(水) 家族の力 

 予後の悪い赤ちゃんに何ができるか?両親とできるだけ一緒にいられる時間を作ること、状態がいいときにできるだけ一緒に過ごせる時間を作ってあげることだと思う。
 先日、予後の悪い赤ちゃんが生まれた。予後が悪いことを両親に説明をした。その両親は私の予想以上に状況を素早く把握でき、すぐ“やさしい医療”を開始することができた。
 実際にはどのようにしたか?ミルクが飲めるのを確認して、点滴をはずし、全身状態がいいときに外泊してもらう。もちろん状態が悪くなったら病院に帰ってこれる環境を作っておいた。
 その赤ちゃんはとても状態がよかった。その病気からして、そういう状態になること自体、珍しいことだった。私は2泊3日の外泊を許可した。お父さん、お母さん、お姉ちゃんと初めての生活である。いろいろ心配事はつきなかった。ところが、2泊3日の外泊を終えて帰ってきたとき、驚いた。病院にいた頃よりも元気になっていた!よく泣いてミルクを欲しがる!顔色も明らかにいい!これが家族の力か?感動し、涙が出てきた。
 その後も状態がいいので、ずっと外泊させて、週に1回の健診を行う予定である。
 この赤ちゃんは家族の力で残りの時間を幸せに過ごせるのではないか。医学的には説明できない、その家族の力で…。


1999年12月16日(木) 一泣きして…

 朝、ある産婦人科から入院依頼。話を聞くと、状態がかなり悪い。
 「早く送って。急いで。」
 救急車の中で心拍が低下。病院に着いた時は心肺停止状態。急いで挿管、心臓マッサージ。さらに心臓を動かす薬を気管に注入。まだ止まったまま。お母さんとつながっていたへその血管に管を入れ、そこから点滴を行う。採血したらひどいデーター。
 ………
 30分、スタッフ総動員で蘇生を行った。帰ってこなかった。生まれた時点で状態が悪かった。
 でも、生きようとしていた。彼女は生きようとしていた。生まれたとき彼女は一泣きした。精一杯お母さんにあいさつをした。
 「お母さん、生まれたよ。これからよろしくね。」
 しかし、それが本当に精一杯だった。彼女は一泣きして…。


1999年11月1日(月) お別れですね

 今日でお別れですね。
 君と最初に会ったのは新生児科に移って2日目の夜9時。私にとって新生児科で2人めの患者さんでした。生まれて1日も経っていない君の顔はむくみがち。手足をピクピクさせている。けいれんだ。原因は何?今からすべきことは?本当に困ったよ。
 その日の夜中に何とか原因が分かったけど、とっても危険な状況だったのだよ。わかってないよね。急いで小さな体にチューブを入れて、血の中の悪いものをとってあげなくてはいけなかったんだ。夜中4時に、お腹をチックンしてごめんね。いたかったでしょ。眠たかったよね。でも君のために2日間私は眠れなかったんだから、許して。
 その後も一進一退の状態が続いたけど、お母さんやお父さんがいつも面会に来てくれたから、がんばれたね。お母さんやお父さんには君の命が危ないことを話していたから、お母さんやお父さん、そして君にとって1日1日がとっても大切だったんだよ。そのことを思うと私も1週間ず〜と病院泊まりでもがんばれたんだ。
 覚えてる?君がいつも大きな声で泣くから、おんぶひもで君をおんぶして仕事をいたことを。忘れたとは言わせないぞ。証拠写真もあるんだから。
 何とか大きな山を越えられたけど、これからまだまだ山があるね。
 原因はわかったけど、その病気の名前がわかっていないんだ。いくつか病気が挙がっているけど、ほとんどが治療法がないんだ。移植治療や遺伝子治療が発達しないと治らないんだ。それまでがんばれる?
 けいれんがちょこちょこおこるよね。このままだと体の発達が遅れそうで心配なんだ。奇跡を起こせる?
 応援するよ。
 そんな君ともお別れですね。あの危険な時期を乗り越えられた時点で私の仕事はおわりなんだ。君の病気があまりに難しいから、専門の先生にお任せするのが一番だから。
 向こうの先生と仲良くね。でもあまりに仲良くなっちゃうと、嫉妬するなあ。
 あまり大きな声で泣いて、お母さんを困らせるなよ。お父さんに君の育児に関わっていくよう、しっかり言っておいたからね。
 元気でね。大きく成長した君の姿を楽しみにしているよ。


1999年9月30日(木) 育児放棄

 育児放棄された患者が入院した。なぜか家庭に問題がある患者は、いつも自分が主治医になってしまう。
 ある期間入院して、今後のことが決まり次第、退院だな。そう思った。
 重症患者が並ぶNICU(新生児の集中治療室)に、その太った元気な赤ちゃんがいる。医者も看護婦もどうしても他の重症患者が気になり、その赤ちゃんはほったらかし気味。
 ところが、とある時期からミルクを吐くようになった。超音波で検査しても異常なし。なぜか?
 『愛情欠乏症候群』
 そんな診断はないのだが、あえて自分はこう診断した。「この嘔吐を治すには愛情しかない。」そう思った私は、時間が許す限り、抱っこしてあげて、ミルクを飲ませることにした。夕方から少し暇になるので、おんぶをして仕事をした。
 1年目の医者がNICUの重症患者を1人で見るなんて不可能。先輩先生の徹底指導、指示をうえて医療を行う。でも1年目の自分にも、先輩医者にはできないことがある。それを実行した。おんぶも恥ずかしくなかった。ミルクを飲ませるために抱っこしてあげると、ちょっとだけ笑うようになってきた。
 次第に嘔吐はなくなっていった。ちょっとは私の愛情がとどいたかな?
 乳児院に行くことが決定し、別れの時が来た。その日、忙しい日中であったが、最後のミルクを飲ませた。自分をじっとみてミルクを飲む。またほほえんだ。「あなたはこれからの人生で他の人が味あわないようないろいろ辛いことがあるだろうけど、がんばって。」なんて考えると、辛くなってきた。なぜ育児放棄なんてするんだ!!
 育児院の先生が来られた。おっきな籠にいれらてた彼は、自分を取り囲んでいる顔をきょろきょろと見ている。自分と目があった。すると目を離さないではないか。ミルクを飲むときと同じあの目で。
 少し時間があったので、もう一度抱っこした。涙が出てきた。また笑ったよ。辛いよ。苦しいよ。
 涙が止まらない。

 育児放棄。私は絶対許さない。いかなる理由があっても。


1999年7月7日(水) 七夕

 今日は七夕。年を取るにつれて、あまり興味のない日となってしまっていた。
 我が病棟では笹が飾っていて、そこに願い事をかいた短冊がつり下がっている。ちょっとその願い事を見てみた。
 「熱が下がりますように。」「早く病気が治りますように。」「早く退院できますように。」「家族3人が幸せでいられますように。」
 なぜか子供が書いた短冊より親の書いた短冊が印象深かった。「熱が下がりますように。」は、本当に現在のその親の願いである。見ていて胸が痛くなる。
 自分も短冊に何か書いてつり下げようと思ったが、これといって書くことがなかった。現在に満足している訳ではない。何に満足していないのかがわからない。素直に書き表すことができない。
 子供は自分に素直であるが、いつの間にかその親も自分に素直になっていくのでは…。子供のもつ不思議な力の一つか?


1999年6月24日(木) こどもの死

 先日、ある患者が亡くなった。自分の担当ではなかったが、亡くなる直前、自分はその部屋にいた。見た目は特に悲惨な感じを出していなかったが、家族の姿を見ると、辛くなり、涙が出てきた。しっかり治療して、回復の見込みがなくなると、少しの間だけ最低限の器機(点滴など)だけにして、お母さんに最後の“抱っこ”をしてもらうのだ。たくさんの器機をつけてしまって、なかなか“抱っこ”できなかった我が子を、本当に最後に抱っこしてあげている姿は見ていて胸が痛くなる。
 ある話を聞いた。ある病気で悪い状態が続いていたが、必ず危険な状態になっても脱出していた。その姿をみた母親が子供に向かって「疲れたでしょ。もう休んでいいのよ。よくがんばったわ。」と言った。その次に危険な状態になった時は回復せず亡くなった。
 こどもは死ぬ直前でもお母さんと会話できる。他の人には真似のできない方法で。


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