それでも走らないといけないから。

 

 

 

01/1/31(水) pm

 


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01/1/17(水) am 祖父の夢

昨日あんなことを考えて眠ったからだろうか、祖父が亡くなってからは初めて、祖父の夢を見た。

祖父は、夢の中で病気だった。のどが痛いというので、じゃあさすってあげる、と言ってのどの後ろのうなじを見ると、うなじにこぶのようなものができて大きくふくれていて、のどの内側にできもののようなものがあることがわかるのだ。それだけでなく、首全体が腫れて、赤くなっている。

私はとても悲しくなりながら、祖父にうつぶせになってもらって、首に手を当ててさすってあげた。こんなに腫れていたら、なでてあげるだけでも痛いかも知れないから、あまり力を入れないように気をつけながら、首に手を当てる。

すると祖父が、「お前が手を当てると病気が治るようだ」と私に言うのだ。私はとても悲しくて、祖父が言うように私の手で本当に病気が消えてしまったらいい、と思いながら首に手を当てている。

祖父ののどにある腫瘍が、まるで熱を受けたバターのように、私の手でどんどん溶けてなくなってしまえばいい。そうすれば痛みも腫れも全部なくなって祖父は元気になってくれるだろう。どうか病気が消えますように。溶けて消えますように。

と、一生懸命願っているところで目が覚めた。

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祖父は生前、私がお見舞いに行ったり、痛いところをさすってあげたりすると、よく「お前が来ると病気が治る」と言っていた。私はどうもこの言葉が忘れられないらしい。

当たり前といえば当たり前である。そんなふうにして自分を必要としてくれる人は、家族以外今のところひとりもいないからだ。こんなふうにして自分を大事にしてくれる人や必要としてくれる人がいながら、私はその人たちを残して一体何をしようっていうんだろう、と自問自答しながら病院から仙台に戻っていたものだった。

祖父と最後に会った日、右肩が痛いというのでさすってあげた。その時も確か、同じようなことを祖父は言っていたように記憶している。私はすぐに帰る予定だったのだが、そういう様子を見ていたらさすがに帰れなくなって、帰る時刻をぎりぎりまで延ばそうと思った。結局、私が当初言った時刻を覚えていた祖父の方から「もう時間だから、行け」と逆に促されて病室を出たのである。

祖父の夢を見た、と言う人は私の他にも数人いるが、みんな祖父がにこにこ笑っていたりする明るい夢ばかりだった。私のように悲しい夢を見た人はいない。おそらくこれは、私の迷いが見せたものに違いない。

本当にどうしたらいいものやら。

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とは思ったが、一応家に電話をかけて、弟に祖父の位牌やら写真やら、のどや首の部分に傷などがないか徹底的に調べさせた。

弟「…あ」
私「どうした?」
弟「じいちゃんの黒い位牌、裏の上の方に少し傷がある」
私「えっ! とりあえず、なでとけ!」
弟「わかった、なでとく」
私「痛そうだったからいっぱいなでてくれ!」

一体どういうことやら。

01/1/16(火) am やっと新世紀

眠り続けていた日々からようやく何とか復帰した。昨日買い物に行き、今日やっと学校に行って来た。

とにかく、年末の買い物を全くしないまま祖父のことで帰省して、そのまま年明けになってしまったので、生活必需品は切れてるし、カレンダーもなかった。部屋のあちこちにぶら下がる「2000年12月」のカレンダー。私の部屋はまだ20世紀だったのである。

さすがにまずいと思って真っ先にカレンダーを買った。もちろん手帳のレフィル(2001年版)も買った(私の手帳もまだ20世紀だった)。私の部屋はようやく新年になった。こんにちは新世紀。調子に乗って掃除をして必要ないものをたっぷり捨てた。

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私は最近、自分の就職について深く悩み始めている。

電話をかけるたびに、実家の両親や祖母が必死に暮らしている雰囲気が伝わってきて、このままじゃ家が滅びるんじゃないかという漠然とした不安にかられる。祖父は80だったが、やっぱり家の支柱だった。

祖父を失い、来年度になれば高校生の弟も大学入学(か、浪人か)を機に確実に家を出る。そうなったとき、広い家に残された3人が一体どうなるやら私は本当に不安である。

地元には結婚したての妹がいるが、妹は所詮次女で、わがままだし自分の視点からしかものを見ないところがある。その証拠に、祖父が亡くなったばかりの時は頻繁に帰ってきたが、祖父がずっと入院している間や葬儀のごたごたが終わった後の今現在などは、家に電話一本かけてこない。つまりは自分が興味があるときしか実家や両親のことを考えない性格なのである。気がきかないというか。

そのくせ、私が「ほんとうに、家のことをよろしくね」と頼むと、「そんなこと頼まれなくたってちゃんとやるよ!」と癇癪を起こす。……結局電話一本かけないのだが。

そんなこんなでやっぱり当てにならない妹のキャラクターをよく知っているせいか、妹夫婦が近くに住んでいるというのに、両親は遠くに住む私の方を当てにする。そういう事実を目の前にすると、年々体調が悪くなっていく両親をどうしたらいいのか、私は一体どうしたらいいのか、本当に悩む。

やりたいことは確かにあるが、両親をうち捨てて都会に出ても後悔しないか、この気がかりをうまく消化できるのか心配なのだ。もし両親のどちらかが病気になったとしても、妹はあの通りだからそんなに献身的に看病するとは思えない。弟も、東京の大学に入ってしまったらそっちで彼女でも作って結婚しそうな雰囲気だ(そして見事尻に敷かれ、滅多に故郷に帰ってこなくなる)。そういう今後を考えても、私が実家から車で1時間程度の県庁所在地に帰って就職した方がいいんじゃないのか。

だがそうすると、私のやりたい職種ではろくな給料がもらえないという現実が立ち上がってくる。仕事自体もなさそうだし、レベルも低そうだし、私の仕事を評価できる目を持った人もいなくなる。おまけに私は女だから、出産だの育児だのになったときに会社が一体どうしてくれるのかも気になる。女性の地位も低そう。

そういう風に考えると、やっぱり地元じゃ難しいということになってしまうのである。結局都会に出ざるを得ない。もし都会で希望する職業につけなかったら、あとは地元にとんぼ返りして公務員か教師になってひたすら出世に血道をあげるしかない。こうなりゃやけで、産休もとりまくりである。

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のろのろとリクルートスーツやSPIの問題集を買ってみたりしているが、こんなに迷いが多い状態で就職できるのかも不安である。私はそろそろ覚悟を決めなければいけない。

どうせいろいろやって結局骨折り損のくたびれもうけに終るくらいなら、始めから公務員か教員の試験勉強をやったほうがいいんじゃないの、と思ったりする。その方が楽ではある。上京しないで済むし。

だけど、リクルートでやっているまるで占いのような適職診断テストR-CAPによると、私の教師や地方公務員への適性はかなり低めである。地方公務員に至っては、向いていない職種ワースト20の中に入ってしまった(ワースト14位)。教師だって低い。

ちなみに適職1位は通訳・翻訳、2位は栄養士、3位は心理カウンセラー、4位がフラワーコーディネーター、そして5位が今のところ私が考えている職種であった。

進もうとしている道はあながち間違ってもいないらしい。3位の心理カウンセラーは、なれるものならなりたい気がする職業なので、意外と当たってる、この占い(占いではない)。

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自分の人生を取るか、家族の犠牲になるか、という単純な問題でもない。それだったら誰でも犠牲にならない方を選ぶ。でも私の場合、家族のためにある程度犠牲になることがかえって自分の気がかりを消してくれるのだから、そうなると失われた分が十分それで補われる可能性もあるのだ。

本当に、どうしたらいいのだろう。

01/1/12(金) am 眠っても眠っても

眠れば眠るほど体の奥から疲労がにじみ出てくるようで、いくら眠ってもまた眠ってしまう。

そんなに自分は疲れていたのか?と疑問を持つほどである。放置しているいろいろなことから急かされ、胃がきりきり痛んでくる。こういう日に限って、番号非通知の着信が何度もあったりして、取ってみると学校からだったりして、ますます胃が痛くなる。

起きると体がだるくて重たいので、結局また眠ってしまい数時間後にまた目を覚ますというサイクルを繰り返していたら、少しずつ気力が回復してきたような気がする。

こういう日があと何日かあればいいのに、と思うのだが、そうもしていられない。

早く気力が戻ってきますように。

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学校にすっかり迷惑をかけてしまったこともあり、助手さんに言われて教授の自宅に電話をした。

恐縮しながら電話をすると、教授は前と同じく、私の状況をとても理解してくれたのがありがたかった。今回のことに関しては、私は全くもって自分の専攻に感謝している。教授のキャラクターとも言えるが、他の専攻だったらこれほど理解してもらえるとは思えない。

ただ一つ困るのは、しみじみ話すので、教授を前にだんだん涙が出てくるということである。さすがに今回は電話だったので大丈夫だったが、前の時は本当に泣きそうだったのでまずかった。大体、私が泣いても様にならないから、冷静な人が端から見たらさぞ滑稽であろう。

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生前、「俺が死んだら、化けて出るぞー」と言っていたので、今出るか今出るかと期待しているのに、祖父はさっぱり化けて出てこない(ちなみに祖父は幽霊話が大好きで、テレビの超常現象特集番組を必ず見ていた)。夢にも見せない。祖母も同じように夢に出てくることを期待しているらしいのだが、全く夢に見ないらしい。

ただ、祖父の死に伴い、私にはひとつだけ不思議な出来事があった。

私が危篤の知らせを受けて、山形に向かう電車に乗っているときである。ちょうど二人がけの席の窓際にすわっていて、私の隣の通路側の席が空いていた。

どさっ

私は突然、両肩に衝撃を受けた。何かが両肩の上にかぶさったような、どさっという感じ。

「???」

びくっとしたその時、私のカバンの中で携帯電話がふるえ始めた。取ってみると病院にいる弟からで、祖父が亡くなったという内容だった。

電話を切って、私は右肩が異様に重たいことに気づいた。右肩が重たくて、腕がしびれてくるほどだった。

……ちょうど、私の右隣の席は空いている。そして家族の中で、祖父の死に目に会えなかったのは私だけだった。

祖父か?と思って隣の席を見るけれど、何も見えない。ただの気のせいかも知れない。でも祖父がお別れに来ているのであってほしいと思って、心の中で精一杯お別れを言った。

乗り換えの時、私は右手を上げるのも辛くて、それでも何とか実家の最寄り駅に向かう電車に乗り換えた。最寄り駅で降りて、タクシーを待つ頃には、右肩はすっかり軽くなって、元に戻っていた。

あとでこの出来事を妹に話し、「じいちゃんかなあ」と言ったら、妹が「そんなわけないじゃん」と言った。

「じいちゃんが死んで悲しい人は他にもたくさんいるんだから、お姉ちゃんとこに行くわけないじゃん。病室であたしたちみんな泣いてるんだし。遠くに、じいちゃんのことが大好きだっていう人は他にいるでしょう」

「そっか。朋子おばちゃんもいるしね。行くなら朋子おばちゃんとこだよねぇ」

朋子小母は大阪に住んでいる祖父の姪である。ずっと昔、祖父は大阪に出稼ぎに行っていた時期がある。その時、当時小学生だった小母を祖父は大変かわいがり、小母も祖父のことが大好きで、癌で入院していると聞いて十数年ぶりに小母が会いに来たとき祖父は泣いて喜んだらしい。確かに、会いに行くとしたら朋子小母が最も自然だ。

とは思ったが、それにしても、あの時の「どさっ」が一体何だったのかは謎である。

01/1/11(木) am 働かなくちゃ

風邪で調子が悪かったので、家で1日中寝ていた。

今日はバイトが休みで、明日あさってもバイト先の上司の心遣いのおかげで休みになった。

塾の方も、昨年末に祖父の容態がどうなるかわからなかったため、レギュラーの授業を入れないでおいてもらった。そのため今は私のレギュラーの授業が全くない状態になっている。あるのは社長の息子(次男)マサトシ君と、甘えん坊将軍チヒロ君のマンツーマン指導のみ。こうなると家庭教師と変わらない(ただし、普通の授業より単価が高い)。

小論文の添削も、昨年末の採点が2回のうち片方を、祖父危篤により帰省したのでできなかった。それ以来仕事の依頼が今のところない。

これは何というか、仕事がほされる予感。本来ならもっと危機感があるはずだが、今回は何だか脱力してしまってさほど危機感を感じない。状況に甘んじてぐったり寝ている。こんなことでいいのかと思いつつ、気力が出てこない。

バイト以上に、学校の方にもいい加減行かなくてはいけないのだが、風邪をおして行くだけの気力もなくて薬を飲んで寝ている始末。

以上のありさまで、する事がたくさんあるはずなのにする気にならずにただ休んでいる。

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昨年後半のバイトの日々は、お金を貯めたいという切実な目的があった。

ローン返済もさることながら、祖父の死期が近いことがわかっていたので、父からお金をある程度貯めておいて欲しいと言われていたのだ。葬儀資金の足しにである。私も祖父の葬儀となったら、少しは出すつもりだったのでとりあえず働いた。

もちろんそれだけがモチベーションではなく、私は純粋に働いてお金を稼ぐことが好きなのだが。好きでなければあんなことはできない。

そのおかげでバイト代が順調に入り、ローン返済が昨年末にすっかり終わった。前々から欲しかったグラフィックソフトをそろえ、祖父の葬儀にあたって15万出してまだ余裕が残った。

いろいろな目的が昨年のうちにすべて達せられてしまって、今は息切れしている状態である。これは何とかして次のモチベーションを作っていかなければ。

自分にあるのは仕事運しかないとわかっているので、仕事しなきゃどうにもならない。大体就職活動をやらなければ、来年とんでもないことになってしまう。

それはわかるのだが、どうも気力が出ず、気ばかり焦っているだけである。

自分としては少し休みたいのだが、休んでいればだんだん気力が出てくるものなのか、それとも休むことがかえって悪いことなのか、よくわからない。いつもの私ならここでとりあえず無理してみるのだが、今回は「よし無理しよう!」という気力もない。

とにかく、なぜか自分から何かをするという気力がないのだが、外から無理矢理持ち込まれたら何かするかも知れない。

突然「ピンポーン」とチャイムが鳴って、バラの造花作りの内職セットが入ったばかでかい段ボール箱を持ったおっちゃんが

「ほらほら、持ってきてやったから働け」

と言ったら、

「そうですか」

と受け取って淡々とバラの造花を作り始めるような気はする。

でも実際はそういうおっちゃんはおらず(当たり前だが)、自発的にやっているのはこの日記を書くことくらいなのである。外に出る気にもならないし、絵を描く気にもならないし。ひとりで閉じこもっているのは体に悪いと思うのだが、体調が悪いこともあってただ寝ているだけ。

ああ、一体どうしたらいいものか。

01/1/10(水) am よりどころの喪失

実家での苛烈な主婦生活から解放され、1人暮らしの部屋でいつも通りひとりで暮らす毎日に戻ってみると、今さらながら祖父の死に対する悲しみが押し寄せてくる。

今は祖父母と同居している人も、祖父母に特別の愛着を持った人も滅多にいない時代になってしまったから、こういうのを理解してもらうことはまず無理だろうと思う。周りを見渡しても、「祖父が亡くなって」と何気なく口にする人を目にすることの方が多いし、私のようにくどくどと悲しむ人なんて見たことがない。

私も妹も弟も、兄弟みんな祖父母に育てられた。両親は共働きで基本的に家にいない。幼稚園バスの送り迎えや、家での子守はみんな祖父母だった。お風呂に入れてくれるのもほとんど祖父母だった。

祖母は昔、とてもきつい人で気分の上下が激しかった。祖母のヒステリーにあうと、私たちきょうだいはみんな祖父の所に逃げた。祖父は口数が少なかったがあたたかくて、孫にとても優しかった。祖母や両親にぶたれた記憶はあるが、祖父に叱られた記憶は全くない。

子供の頃、私たちの持ち物が紛失すると、祖父は黙って一緒に探してくれた。折り畳み傘の糸目がほどけたら直してくれたし、冬に全身雪まみれで帰るとほうきで背中や肩の雪をはらってくれた。寒い朝は、家族全員の靴を薪ストーブの両脇に並べてあたためておいてくれた。

祖父との小さい思い出が後から後から思い出されて、その祖父がもういないということがとても悲しい。ある意味、両親よりも重たい存在だったと思う。

両親との思い出はおそらくイベント的なものしかない。共働きの両親と私たちきょうだいは、旅行などのイベントごと以外に一緒にいる時間がない。両親にはたくさんお金をかけてもらっているし、愛情があることもわかるけれど、こういう小さな思い出の積み重ねはないのだ。

誰かに愛情をもらったという実感は、お金をかけてもらったとか、イベントごとで一緒だとか、そういうことからは生まれない。そしてこの実感を持てるかどうかは、自分を肯定できるかできないかの分かれ道だという。

私は1人暮らしをするようになってある程度経ってから、祖父の存在がどれだけ大切なものであるかを知った。ひどく落ち込んだり、自己嫌悪に陥ったりしたとき、祖父が自分にしてくれた小さなことひとつひとつを思い出した。

自分は小さいとき、誰かにちゃんと愛情をもらったのだと実感することができた。そのおかげで、かろうじて自分を立て直すことができる。そのことがとても有り難かった。

とても有り難かったのに、その有り難さの半分も返せず、また言葉に表すこともできないうちに祖父はいなくなってしまった。祖父が病気になってからはできる限り帰って、看護もどきをやったつもりだから特別大きな悔いはないが、それでも私がもらったものの半分も祖父に返すことができなかった。

ただでさえ返せないほど大きなものをもらったのに、それを本人にはもう返せなくなってしまって、どうしたらよいのだろうと思う。それ以上にこの大きな喪失感とどう付き合っていったらよいのか、私にはよくわからない。今はただ残った疲労を回復するために、ひたすら休んでいるだけだ。

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いつまでも悲しんでいたって仕方ないことだとわかっているのに。それ以前に、全く周囲にはわかってもらいにくい悲しみだということもわかっているのに。

01/1/9(火) am おばさになるな

祖父の葬式で、小さい頃からよく知っている近所のおばちゃんが、火葬と葬儀の間の留守番をしていてくれた。

私と祖母が帰ってきてからふたりで「おかげでいいお葬式ができました」とおばちゃんに挨拶したら、おばちゃんが私に、

「おばさになんなよ」

と言った。「おばさ」というのは山形弁で、未婚のまま年老いてしまった女性……つまり「行かず後家」のことを言うらしい。

一体どういうことだろう、と思っていたら、

「おばさになった人の葬式なんてみじめなもんだ。親戚に行いが立派ですばらしい人がいたけど、おばさだから葬式なんて惨めなもんだった。旦那も子供もいなかったら、葬式なんて誰も来ない。どんなに立派だって、結婚しなけりゃみじめなもんだ」

とおばちゃんが言った。

何か重たい物をぶつけられたようで、私はこの言葉が忘れられない。

そういえば昔、私は母からも何度か似たような話を聞いたことがある。

ひとりっきり残された母親の面倒を一生懸命見ているうちに婚期を逃し、それでも一生懸命働くうちに子宮癌におかされ、最後には母も失ってひとりで癌と闘うことになった年輩の女性教師のこと。

両親の面倒を見て二人が死ぬまでしっかり見届け、自分は婚期を逃したまま未婚で年老いて死に、葬式に十数人しか訪れなかったという老女の話。

そしてそれらのみじめさを語った後で最後に母は「結婚しないなんていけない。やっぱり他人がやることは自分もやらなきゃいけないんだ」と言うのだ。

惨めな話なら私も身近で見て知っている。母方の実家の隣の家に、両親と娘3人の家族がいた。次女と三女はさっさと家を出て、長女が家に残った。長女は両親から結婚相手の条件として、自分たちと同居してくれる人ということを提示していた。

案の定長女はいつまでたっても結婚できなかった。30代も後半の後半でやっと、風采の上がらない中年男と結婚した。2年後、もう40近くなって子供が産まれたが、高齢出産のせいか子供には聴覚障害があった。つらい話だ。

妹が結婚したせいか、そしてその妹と私のキャラのギャップがあまりにも大きすぎるせいか、私には最近ものすごいプレッシャーがかかりはじめている。

いっそのこと、「同性愛者なんで、異性に興味ないんですすいません」などと作り話をでっちあげて、みんながこういう話をしづらい雰囲気でもつくっちゃおうかなぁなんて真面目に考えているほどである。

同時にかかりはじめているのが、「オレタチの面倒を見てくれ」という親からの無言のプレッシャーである。

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私の父は、両親のために関東の大学への進学・就職をあきらめた人である。大学四年の時、IBMから就職の誘いがあったのに蹴ったらしい(何ともったいない)。

そんな父は、自分の老後を子供のうち誰かがきっちり面倒見てくれるものだと独り決めしていて、子供に対する依存心が非常に強い。子にしてみれば迷惑な話である。私が帰ると、私にべったり甘えてくるのでうざったくて仕方ない。

何だかんだ言っても私は長女で、結婚したとはいえ子供っぽいままの妹は、家事においても親戚との付き合い方でも全くあてにならない。遠くに住んでいるはずの私が、帰るとコマネズミのように働かざるを得なくなる。責任も重く、母は体調が悪いし、父は私に甘えてくるし、全く身動きがとれなくなる。

地元に就職するという選択肢を私が最後に残しているのは、そういう事情があるからである。未来が見えるのだ。長男である弟が家を出て東京に行き、私が実家に帰れば、両親と祖母が私にべったり寄りかかるだろう。職場のストレスで体をぶっ壊すだけぶっ壊した父と、舅姑・自分の母の介護で体がおかしくなった母と、軽く痴呆の入ってきたりなんかする祖母が、尻拭いしてとみんな私の両肩に覆い被さってくる。

そのころ弟は東京で就職する。そして長男業務の放棄。

私はたぶん両親達を支え続けるために猛烈に働くのだろうが、年寄り3人抱えて血走った目で働く女に寄りつく男などいるはずもない。運良く誰かと付き合うことになっても、付き合った途端に「うちにはおばあちゃんとお父さんとお母さんがいて大変なの」と言われ、その年寄り3人ともがみんな病気持ちだったりしたら、誰でもしりごみするに決まってる。

私は案の定「おばさ」になり、3人があの世に旅立つのを見送った後は、癌にむしばまれひとりで闘病し、ひとり惨めに死ぬだけである。そして数少ない会葬者に「オールドミスの葬式なんて惨めなもんだね」なんて嘲笑されるのだ。

そういう結末がよく見えるので、あまりの恐ろしさに私はできるだけ実家に入りたくない。

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仙台に戻ってくるとき、私は父親にクギを刺した。

「いい、お父さん。娘を「おばさ」にしたくなかったら、子供をあてにしないで自分の体調管理くらい自分でやって。私が最後まで面倒見てくれると思ったら大間違いだからね。私は私のことをきちんとしなくちゃいけないの。お父さん達がそれをさせなかったら、私は確実に惨めな葬式だからね。娘にそういう人生を送らせたい?」

母は、確かにそういう事態があり得ることをよくわかっているので、私の言葉をちゃんと承諾してくれた。だが父は返事をしなかった。

私がどんな状況でも簡単に結婚相手を捕まえてくるほど甲斐性のある人間だったら別だが、残念ながら私はそういう人間ではない。だから私は家に入って支えることなどできないのだ。

近所のおばちゃんにしても、母にしても、私のキャラにそういうところが見え隠れしているからこそ、危惧して「惨めな葬式話」を語って聞かせるのである。だが肝心の父は全くわかっていない。一体何を考えているのかと頭が痛くなる。

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たぶん、この「情」にほだされずにきちんと自分の意志を通さないと、私はいい人生を送れないように思う。犠牲死のように生きていくのはいくら何でも嫌だ。親もそれを望まないだろう…と思っていると、意外と親はそれを望んでいたりするからたちが悪い。

01/1/5(水) pm 老象、老猿、老狸

何だか、待っているとそのうち祖父がひょっこり帰ってきそうな、まだ病院に入院しているような、そんな気がする。でも実際は祖父はもうどこをどう探してもいないし、姿を見ることもできない。

どんなに顔を見たり声を聞いたりしたいと思っても、もう会えない。死ぬというのはそういうことなんだと初めて知った。こういう感じを私は今まで味わったことがなかった。

祖母は祖父がいなくなって、気が抜けたようになった。昔、私が小さい頃はとてもきつくて我の強い祖母だったが、今は年老いた象のように、大柄な体でのったのったと歩いて動きがめっきり鈍い。

のろのろと洗濯物をたたんだり、昔より二倍は時間をかけてあちらこちらを片付けたりしているのを見ると、この祖母をひとりで家に残していいものだろうか、と不安になる。

この祖母が年老いた象なら、亡くなった祖父は老いた猿のようだった。有名な彫刻の、あの猿のようであった。特にがっちりした体躯ではないけれど骨太で、身軽にあちこちを歩き回り、いろいろな仕事をこなしていた。孫達に「これはあめ玉だ」と言ってのどぼとけを指すようなお茶目さも持ちつつ。

今、癌を患っている母方の祖母は、動物にたとえれば狸である。毛皮のほとんどが白く変わり、白と茶色の混じった色に見える、老いてやせた小さな狸。置物の狸はお腹が出ていて愛嬌たっぷりだが、実際の狸は愛嬌とは無縁で、敏捷で賢そうに見える。そんな野生の狸に似ている。

母方の祖母はものを見る目が確かで、さまざまなしきたりごとにとても詳しい。教師という職業にとても誇りを持っていて、決して弱音を吐かずに頑固に一人暮らしをしている。まるで、ひとり巣穴で誇りを守って生きている、年取った狸のようである。

人にはいろいろな年の取り方があるものだ。

年を取った人はそれだけでえらいと思う。年を取っているというのは、生きることから逃げなかったということである。

望んだことがうまくいかなかったり、悲しいことがあったり、病気になったり、それでも逃げないで生き続けるのは本当に難しいことだ。祖父の80年には親しい人との死別も、戦争も、苦しい労働も病もあった。その難しいことを踏み越えると、なぜか最後にお茶目なお猿になる。

それって何だかすごい。これから自分自身がやってみないとわからない、人生の不思議。

01/1/3(水) am あめ玉ののどぼとけ

祖父が亡くなって七日になろうとしている。

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「これは小さいときにあめ玉を飲んだから出てるんだ」

自分ののどぼとけを指して、祖父は私が小さいときによくそう言った。妹にも、弟にも言ったらしい。

(かわいそうに、どうして病院に行かないんだろう、いや、もしかすると病院に行っても治らなかったのかな……溶けないあめ玉ってあるんだ……)

私は完全に信じ込んでいた。妹も弟も、祖父がオモシロ半分で言った作り話をすっかり信じ込んでいた。

私はごはんのたびに、祖父ののどぼとけが上下するのを見て

(あれがあめ玉か、食べにくそう…くそっあめ玉め、お前さえなければ)

と思ったものだ。

葬儀屋さんと打ち合わせしながら、父が祖父ののどぼとけの骨を小さな骨壺に入れて、納骨する骨とは別に家に置いておきたいと言った。

火葬したら祖父が横向きになって出てきたのでわかりにくかったが、のどぼとけの骨はちゃんと小さな壺におさめられた。私はそれを、葬儀場から帰るバスの中で膝の上に乗せて帰った。

葬儀の時に私たち家族はいろいろな荷物を持った。遺影は祖母、位牌は父、作り物の花は母、ごはんとお団子のお供えは妹、大きい方の骨は弟、のどぼとけの小さな壺は私が持った。

妹も弟も、祖父ののどぼとけの作り話をちゃんと覚えていた。

20年近く経って、私はあめ玉ののどぼとけの正体を見た。あめ玉ののどぼとけの正体はあめ玉ではなく、ただのひし形の骨だった。祖母の妹にあたる大叔母が、あの骨を立てるとお地蔵様の形になるのだと教えてくれた。

祖父ののどに入っていたのは、あめ玉ではなくてお地蔵様だった。

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祖父が死んだ直後は、死ぬ間際の苦しい様子を思って悲しくて仕方なかったが、少しだけ落ち着いた今は、妙にお茶目でユニークな祖父だったことばかり思い出す。

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