ことの始まりはある日のバイトだった。
バイト先の同僚がひどい風邪をひいていて、おまけに高熱の出ている状態で仕事をしていた。そしてその日、私がバイトを終えて家に帰ると右耳の調子がおかしくなったのである。
次の日、起きてみると耳の調子は相変わらずおかしい。何だか耳の奥に何かがつまったような、重たいような、聞こえにくいような感じがする。おまけに何だか体調が悪くて私は数時間休養を取り、そのあとで友人との約束があったので友人宅に行った。
友人宅に行って右耳の調子がおかしいと言ったら、近くの耳鼻科の医院を紹介してくれた。たぶん中耳炎だろうと思って翌日行ってみたが、診断して特に悪いところはなく、聴力も正常レベルという結果が出た。医師は「耳の帯状ヘルペスか、アレルギーの疑いがあります」と言ったが、はっきりした診断はなかった。
アレルギー。そしてヘルペス。聞きたくない言葉を一気に浴びせられて、私は本当にびっくりした。診察が終わったときにはぽかんとしていてよくわからなかったが、家に帰ってよく考えてみると、ヘルペスウイルスが目に入ると失明すると聞いたことがあるし、うちの父はアレルギーのせいで夜中に時々ぜんそくの発作を起こす。
こわいな……と思いつつも、翌日はゆっくり休息をとり、夜になって友達にファックスを送ってみた。耳の調子が変だと書いたら、「最近、ストレスで耳が聞こえなくなったり耳鳴りがしたりする病気があるらしい」という返事が返ってきた。
そういう病気は私も聞いたことがある。突発性難聴である。以前偶然ネットサーフしていて知った病気だ。これになると、一週間以内に治療しなければ完治が難しいという恐ろしい病だ。ネットサーフしてみたら、普通はめまいや耳鳴りを伴うが、そういうケースだけではなく単に聴力の低下をもたらすだけの突発性難聴もあるらしい。
私の症状は、特にめまいや耳鳴りはないものの、やはり右耳は重たいような感じがして少し聞こえにくいように感じる。正常レベルの聴力とはいえ、もしかしたら私は突発性難聴ではないのか。そう思ったら心配でたまらなくなってきた。
とりあえず母に電話をかけてみた。もし突発性難聴だった場合、すでに病気が出てから数日経っているから完治しない場合も考えなくてはならない。聴力障害者となったら満足な就職は見込めないかも知れないし、それ以前に治療のためバイトを休んで入院および通院なんて自力ではとてもできない。
私は本当に怖くなってきた。電話に出た母は、「突発性難聴かも…」と私が言うと、「それ、めまいはする? 耳鳴りは? とにかく安静にしないといけないから、もしそうだって言われたらこっちに帰ってきなさい」と即座に言った。
あな、おそろしや。私はだんだん体がふるえてきた。必死で気を紛らわせるもののどうにもならない。久しぶりに「笑う犬の冒険」を見たのに全然笑えない。
こうなったら後ろを安心にしておかねば、と思って、入院になったら確実にお世話になるであろう古くからの友人に電話をかけてみた。「とにかく、病院が終わったらすぐに連絡してね」と励まされる。
ああ、私は一体何の病気なのであろうか。もしかしたら医者が言ったとおりヘルペスか。それともアレルギーか。はたまた突発性難聴か。突発性難聴について調べてみたら、「ウイルス性という説もある」などと書いてあり、「ウイルスって言えばヘルペスじゃんか」と思ったりもしてますます不安になる。突発性難聴とヘルペスの合わせ技だったらどうしよう。
何というかもう本格的に不安になってきた。体中の血が逆流するようだ。とにかく安静、と思ってふとんに入るが、全然眠れない。いろんな思いが頭の中を駆けめぐる。
(まあ確かに、3週間くらい入院になったら心も体も休められて非常にいいだろう。最近働き過ぎだったよ。どうせローンは去年末で全部払い終わったから特にバイトの必要もないし、大学生協で加入してた共済の保険も下りるか…1日1000円だっけ…ああだけど今時期私が入院なんかしたら、弟の大学受験と祖父の葬式関連で疲れがたまってる両親にさらに苦痛がくるだろうなぁ…いいのかなあ、葬式で私はがんばったし多少は許してもらえるだろうか。でもそのうちじーちゃんの49日だから…いや、それより私の就職はどうなるんだろう、この時期3週間も何もできなかったらもう終わりだ…履歴書に突発性難聴になったなんて書かなきゃいけないのかな…まあどうせアレルギーになったりするような奴だからもともとハードな職場は向かなかったんだろう、自己分析が不十分だったんだよね…。聴力が戻らなかったら実家で家事手伝いかな……嫌だけどしょうがない…。でもとにかく、就職がどうなっても仕方ないから聴力だけは戻ってくれ…ステレオのCDがモノラルになるのだけは耐えられない!)
明け方までふとんの中でひとりぐるぐる考えていたら、だんだん目がしぱしぱしてきた。しまいには息まで苦しくなってきた。咳が出る。息ができないような感じがしてきた。目はものすごくしぱしぱする。ああ、きっとアレルギーなんだ。私もぜんそくなんだ。そして原因はたぶんハウスダストで…ああ、じいちゃん、あなたはよくこんな病気の不安に耐えたよ…私は無理だ、戦後生まれだから…
---- 不安で気が狂いそうになりながら、私は6時に起きて朝一番に大きな病院の耳鼻科に行った。もちろん、最初に行った小さな医院とは違って、国家公務員御用達で予約制という、設備の整ったきれいな病院である。
私は見るからにエリートで信頼のおけそうな医師に、自分の不安とこれまでの一部始終をくまなく話し、聴力検査のフルコースを受けた。
結果。以下は医師と私とのやりとり。
医師「まず聴力検査の結果ですが……よすぎるのね。本当に聞こえてるのか?っていうくらい、耳はよく聞こえてます。普通のレベルよりはるかにいい。見る限り、ヘルペスの症状はありません。ヘルペスという言葉は忘れてください。そうなると、どうして耳の違和感があるかということなんですが……痛みはありますか? どういう違和感ですか」
私「えーと、なんて言うか、右耳は、自動車に乗って山に登っていったときの耳の違和感が、あくびなんかをしてもすっきり取れないときの感じなんです。前も疲れてなるときがあったんですが、その時は寝れば治ってまして、今回のように長引くのは初めてで」
医師「で、左耳は?」
私「左耳はすっきり」
医師「そうなると、耳の圧力調節の調子が、右耳で少し調子悪くなってるんですね。(以下耳の圧力調節についての説明)」
私「それは何か深刻な病気ですか」
医師「(首を大きくゆっくり横に振る)これは風邪で起こり得ますし、風邪で調子の悪さが長引くこともあります」
私「風邪のせいなんですか。ということは、この咳もただの風邪ですか」
医師「はい。だからちょっと様子を見てれば、風邪と一緒に治っていくと思いますよ。前はすぐに治っていたんですから」
私「よかった……あの、突発性難聴じゃないかって言われて心配していたんです」
医師「それは一体、誰が言ったんですか」
私「えーと、友達や家族が…」
医師「(呆れたようにため息)あなたの周りには、とにかくマイナスの情報ばかりもたらす人たちが集まっていたわけですね。まあ心配しないで、安心してください」
結果はただの風邪。私はどうやら、自分の思いこみで呼吸困難にまで至ってしまったらしかった。まったくばかげている。自分の思いこみの激しさを実感する出来事であった。
ちなみに耳だが、今はもうすっかりいい。病院行って2日もしたらよくなった。
病そのものより、病に伴うストレスの方が人間の体をむしばむ。あの日の息苦しさを私はずっと忘れないだろう。
---- そんなこんなで、日記に2週間以上も間が空いてしまったのであった。
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