昨日、重たい植木鉢を持ったせいでまた腰を痛めた。鬱でしかたない。明日整体に行く予定。こんな状態で本当に仕事とかできるのか全く不安である。でも絶対治すと固く決意。
そんな状態でも部屋の掃除をしなくてはいけなくて、重たいものをたくさん持って、座りっぱなしのアルバイトをやらなきゃいけないのがこの私である。誰も助けてはくれない。実家に帰っても、かえって心配してくたびれるだけで。
ああ、何だか、生きているのに疲れた。生きるの、もうやめたいなあ。
---- 誇り高く最後まで気丈に1人暮らしを続けていた母方の祖母が、今月の13日の深夜に亡くなった。モルヒネを打たれ、最期の表情は安らかだった。
葬儀でくたくたに疲れ果て、1日眠ってやっと疲れが癒えたおとといの晩のことである。いつものように夜更かしをした私は、夜中の2時半ごろに歯を磨くため階下に降りた。
洗面所の前の廊下の電気をつけようとスイッチをオンにしたら、一瞬パッとついてそのまま消えた。どうやら電球が切れてしまったようだ。気味が悪かったので私は周囲の明かりをいくつもつけて、洗面所で歯を磨き始めた。
すると間もなく、玄関の方から、
「○○(連打屋の下の名前)」
と、低い声で呼ばれた。低い声だが、男の声ではない。思わずそっちの方向を見て、「はい?」と返事をしてみたがしかし、よく考えたら誰もいるはずがない。
家族は全員寝静まり、洗面所から出て見てみた玄関には誰もおらず、家の中はしーんと静まりかえっている。
私はぞっとした。だが、もしかすると洗面所の廊下をはさんだ隣の仏間に寝ている祖母が、布団の中から私を呼んだのかも知れない。そう思った私は歯を磨きつつ、仏間に行って電気をぱちんとつけた。
眠っていたらしい祖母が、まぶしそうにしてこっちを見た。
「ばーちゃん、あたしを呼んだ?」 「ううん、呼んでないよ」
どうやら呼んだのは、この祖母でもないらしい。
とすると、あの声は誰だ?
私は寝ぼけ眼の祖母に今起こったことを話した。おそらく数日前に亡くなった母方の祖母が来て呼んだのだろう、と祖母は言った。
---- 母方の祖母は1人暮らしであった。ひとりで、小さな家に30年近くも住んでいた。
80を過ぎても自分でご飯をきちんと作り、きちんと洗濯して洗濯物をたたみ、母が大怪我で入院した時は一番にバスタオルやタオルといった入院の道具をごっそり詰めた袋を持って病院にかけつけた。死ぬ寸前まで、庭の手入れをしてもらうことや味噌を作ってもらうことを指図していた。
そんなふうにして祖母が頑張って暮らして生涯を終えた母方の実家は、今は無人のまま放置されている。葬儀の時はたくさんの人が入ってにぎやかだったあの家も、今は空き家である。祖母の長男である伯父が、家の合い鍵をきょうだい4人と懇意にしている親戚3人に渡し、中でもつながりの濃い親戚の女性は毎日家の様子を見に行ってくれているはずだが、基本的には誰も住んでいない。
死んでから49日の間は、霊魂は家の棟を離れないという。祖母の例は今ごろ、誰もいない家の周りをぐるぐる漂っているのか…そう思うとやるせない気持ちになる。位牌は長男の伯父が連れて行ってくれたはずだが、うちになじみがあって祖母はうちを訪れたのかも知れない。
夜陰に乗じて母の所に会いに行こうとでもしたのかもしれないが、両親の部屋の途中にある洗面所で、私が電気をぱーっとつけて歯なんか磨いているものだから、行く手を阻まれてさぞ迷惑しただろう。
---- ただうちには、もうひとり死人がいたことを忘れてはならない。祖母が繰り返し幻を見ている、去年亡くなったうちの祖父である。
2時半という時間は、ちょうど祖父が生前毎晩トイレに起きていた時間なのだ。やっぱり私が夜更かししてそろそろ寝ようと歯を磨いていると、祖父が障子を開けて仏間の寝床から起きてきて、トイレに行くのだ。私の姿を認めると、「おう、○○(連打屋の下の名前)」と声をかけていったものだ。
この祖父だったかもしれないなあ、とも思う。でも祖父の声なら一発でわかるはずだから、たぶんあれはやっぱり母方の祖母だったに違いない。
---- 死んだ人との思い出をたどると、どうにも悲しい気分になる。去年亡くなった父方の祖父の思い出ほど多くはないが、母方の祖母の思い出も少なからずある。
私の好物はほとんど母方の祖母の手料理ばかりである。朝ご飯の卵焼きと、お盆ににしんを昆布で巻いた昆布巻は、母方の祖母が作ったのが一番だった。絶対に他の人間では再現不可能なおいしさなのだ。お盆になるとたくさん昆布巻を作っておいて迎えてくれて、泊まった翌朝は必ずおいしい卵焼きが出た。手作りのプリンもおいしかった。
生姜を添えた甘めのあんをかけたくるみ豆腐もおいしかったし、水菜を使ったしゃきっとした郷土料理のひやしる、お正月のあんこ餅も手作りの伊達巻きもおいしかった。ゆずをたっぷり入れた自家製赤味噌のお味噌汁も大好きだった。胃袋の思い出というのは、全く強烈である。きっともう同じものを食べることができない分、絶対に忘れないだろう。
子供の頃、祖母の家にみんなで遊びに来ている時、両親や弟妹が買い物に行くと出不精な私はよく祖母と一緒に留守番をした。ふたりでがらんとした家の中で静かな時間を過ごした。祖母が入院していたときも、両親が出かけて私が祖母の個室でひとり留守番で付き添ったことがある。いつも主張の強い祖母があまりものを言わず、一緒に過ごした静かな時間の不思議なギャップを私はよくおぼえている。
母が入院していた今年の5月、補聴器を新調した祖母は耳のきこえがよくなっていたので、病院の待合室で私は数年ぶりに祖母とひそひそ話をした。本当に何年かぶりだったので、私はとても嬉しかった。
おととしの夏、祖母は頭にあせもができたせいでひどく髪が抜けて、一気に老け込んでしまったことがあった。ところが医者からもらった軟膏をつけていたら、一気に髪が生えてきて前よりもふさふさになり、しかも白髪がやや黒くなったので、祖母の生命力の強さに驚嘆した。
かなりの時期、祖母の頭ははげたままだったのだが、長男である伯父夫婦も伯父の長女であるいとこのお姉ちゃんも、誰もそのことを知らなかった。その人たちが、祖母の位牌と、祖母の家の仏壇を持っていく。
---- 私の妹は、葬儀の間ずっと泣いていた。祖母は昔、うちの3人きょうだいのうち長女でも長男でもない妹を、養女に迎えて自分の家を継がせたいと言っていた時期があるという。
結局それはかなうことなく、妹は昨年旦那さんのケンちゃんと結婚したのだが、祖母はやっぱり私よりも地元に暮らす妹に親しみがあったようで、よく妹の家に電話をかけて手伝いを頼んでいたという。妹がやってくるといろんな雑事を頼むことができ、甘えられたようである。
私より妹夫婦の方が、母方の祖母との思い出が多いに違いない。母方の祖母は学歴が低く職業も不安定だという理由ではじめはケンちゃんを嫌っていたが、妹と一緒に祖母の家にやってきてはいろんなことを手まめにやってくれるので最期の方ではなかなか気に入っていたようだ。
ケンちゃんは盆栽が趣味なので、祖母によく鉢物や植木の手入れを頼まれていたそうだ。母方の祖父は30年前に亡くなっているが、その祖父の形見だというシャコバサボテンが枯れかけて、祖母に頼まれたケンちゃんが挿し木したものが見事に発芽して生き返った。
祖母はそれをよろこび、死んだらそのサボテンを持っていってくれるようにケンちゃんに言ったという。ケンちゃんはそのサボテンと、同じように祖母の家にずっとあった大きな藤の盆栽も形見分けでもらっていった。
---- 祖母の家から帰る時、祖母はいつも家の庭に立ち私たちの車をいつまでも見送ってくれた。ここ数年は、毎回これが最後かも知れないと思いながらその姿に手を振ったが、今度こそ、本当に最後になってしまった。
人と過ごす時間には限りがあり、かけがえがない人で、かけがえがない時間だと思うのなら精一杯大事に過ごさなくてはならない。意識してそういう時間を作らなければ、時は駆け足に過ぎて、あっという間にその人は死んでしまい、2度と同じ価値の時間を持つことはできない。
その人が健康に生きている時に一緒に過ごす時間は本当に貴重で、その人が死病で伏す床のそばで得られる思い出の何倍もの価値がある。だから本当に大切な人との思い出は大切に作らなくてはならない。
家から2人死人を出し、母も1度死にかけるという経験をしたこの1年間で得た教訓である。
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