いい加減、信頼できる対象を。

 

 

 

01/10/31(水) pm guilty or not guilty?

罪は重いのかもしれないが今更どうしようもないことが多いことも事実で、押しとどめてきた何かが発作的に暴れ出すのをさらに強い力で押さえ込む毎日。

原因物に触れないようにしているのだがそうも行かず、避け続けている分不意をつかれるとまるで心臓をえぐられるような感じがする。

向こうには代わりが次々生成されているというのに、その変化についていけずにため息ついて目をそらす。目をそらしても理由を考えてはいけない。

----
最近、バイトも学校もない日にお昼のドラマを見ながら昼食をとるようになってしまった。

「レッド」というハーレクイン系の昼メロである。ヒロインもヒロインの恋人役もいまいち魅力がなくて目のやり場に困る。あのヒロインがどうして「男が放っておかない魅力を持つ」という設定なのか理解に苦しむ。どう見てもこの女優の役どころはヒロインの友達止まりだろう…と思わざるを得ないのだが。

話の筋も荒唐無稽で、全くの虚構としか言いようのない事柄がストーリーの背骨として入っているのがびっくり。その背骨とは、「ヒロインの髪が赤い」ということである。赤いと言っても赤茶ということではなくて、真っ赤。遺伝子の突然変異というのが考えられるのだが、そのくせ眉は黒い。眉があまりにも黒いので、宿命的な髪の色、というより、どう見てもヤンキーのお姉ちゃんとしか思えないルックスである。

せめて眉も赤茶に脱色しておけばもうちょっと魅力が出たものを…。どうして髪だけ赤で眉が真っ黒なんだ。

この話、主人公の心の傷が父親のせいということになっている。ヒロインの髪が赤いため、父親が自分の子供と認めず、妻とよその男の不倫の子だと思いこんで徹底的にいじめるのである。そのせいですべての不幸が起こり、ヒロインの家の中はめちゃくちゃ。

ヒロインは赤い髪のせいで不倫の子で淫蕩だとさんざんからかわれ、男どもにつきまとわれ、父親にレイプされかけ、兄の同級生の男にレイプされる。

でもこんな設定、現代日本ではとても考えられない。赤い髪がダメなら黒く染めたらいいではないか。今時黒く染めるなんてコンビニで500円も出せば自分で簡単にできる。1時間足らずで「淫蕩」疑惑は晴れるのに、どうしてそうしないのか。今はどんな田舎だってコンビニの一軒、そうでなければカラーの売ってる薬局の一軒もあるだろう。ダメならネットや電話で通販だってできるし、高くていいなら美容院だってある。

いやもっと根本的な問題に立ち返ろう。主人公の父親は主人公が不倫の子ではないかという疑いを持っているために主人公をいじめるが、こんな煮え切らない問題は現在スパッと解決できるのだ。そう、DNA鑑定。

娘は実の父と思っているから、父にいじめられるのが普通以上に苦痛である。父は自分の娘だと思っていないから、娘をいじめる。このねじくれた関係にDNA鑑定はほぼ100パーセント正しい明快な答えをもたらしてくれる。

腕からちょっとだけ血を採ってしばらく待つだけ。そうすれば科学的な親子判定ができる。もし実の親子なら父はいじめなくなるだろうし、実の親子でなければ娘は精神的苦痛を負ってまで一緒にいようとは思わないだろう。家にい続けるならいじめられる理由を理屈で割り切れるし、嫌なら家を出ればよい。科学が証明するんだから父親も文句はあるまい。DNA鑑定なんてちょっとでかい病院に頼めば済むことである。

淫蕩だとからかいながら虎視眈々とレイプの機会をうかがうアホ男たちには、警察に申し出るという手段がある。田舎警察でセクハラまがいの事情聴取が嫌なら、ネット通販で過激な防犯グッズでも買えばよい。防犯ベルに催涙スプレー、スタンガン、サバイバルゲーム用の連射型のBB弾銃。最終的にはわかりやすくバットをバッグの中に隠し持って通学するのも手だし、本屋で立ち読みして護身術を身につけるのも良い。

そんなものが通販できるか知らないが、中世ヨーロッパの婦人のような貞操帯をあぶない通販で手に入れることもできるかもしれない。スカートをめくって大きな南京錠が出てきたら暴漢のムードもぶちこわしだろう。

奴らの写真をひそかに取りまくり、あることないこと書き立てた嫌がらせビラをまくという手もあるし、全員の家に恐怖のいたずら電話攻撃もいい。危険なホームページにそやつらの写真を投稿して個人情報を公開し、「殺してください」と書き込むこともできる時代である。

いや、もっとシンプルに、無防備に一人で夜出歩くのを控えればいいだけの話なのだが…それでも襲われた時のために、田舎のバカ向けの脅し文句を考えるという手もある。

「そう、私はあんたたちの言うとおり、お母さんの不倫の子なの。不倫相手はこの通り、赤い髪の外国人。でも実はそのせいで、私もお母さんも、エイズに感染してるの。今は発症していないけど、いずれは発症して死ぬし、私とやればうつる。お母さんの蒸発は、実はエイズが発症して大きな病院に入院して死んだの。私を襲うのは勝手だけど、そんなことしたらあんたたち、みんな死ぬよ。今あんたが押さえ込んでる私の腕から血が出てるけど、この血からだってうつって死ぬよ。それでもやるの?」

「病気になる」。しかもエイズ。なんとムードぶちこわしの台詞だろう。これを耳元で冷静に言い放てば、結構な護身になるのではないか。ザ・興醒め。翌日からエイズ女と言われますます避けられるかもしれないが誰からも近づかれない方がかえって安全である。どうせもともと誰からも好かれていないのだ。それなら危険が少ない方がいい。

というわけでこのヒロイン、自分の不幸を防ぐにはいくらも手があると思うのだが、何もしない。無知もいいところである。彼女がレイプされるのは17の時だが、今時中学生だって防犯ベルやDNA鑑定やカラーリングぐらい知っている。ネットだって学校や図書館でできる。父親のクレジットカード番号をメモしてくるだけでネット通販やり放題だ。

そういうご時世だということを頭に置いてしまうと、このドラマのヒロインの不幸に全く共感できないのだが、それでもみんながまじめに演技している滑稽さ見たさについつい見てしまう。

最近はただ主人公の髪が赤いだけのただのラブストーリーなので、設定の可笑しさはあまり気にならず、歯の浮くような口説き文句を真っ昼間から聞く面白さがたまらない。うーむ、世のカップルはこんな歯の浮く台詞を言い合っているものなんだろうか。よくわからないが面白い。

でもやっぱり、真っ赤な髪に真っ黒な眉、というのはどうかと思うんだけどなあ…虚構の中途半端さは目に付く。せめて主人公の髪はもうちょっと派手めに、赤のロングヘアーにしていたら「その赤い髪、ぞくぞくするぜ」という悪漢の言葉も理解できたろう。オフィシャルホームページの写真のような感じなら、なるほど虚構なのねと納得がいくのになあ。うーむ。

 


日記才人投票ボタンです。
初めての人はちょっと手間かも。

1行メールボタンです。
内容は空でも結構です。



01/10/25(木) am 記憶のかけら

また二日分更新しています。最近こればっかりです。

----
私は割と物覚えがいい方なのか、かなり幼い頃のことまで長期記憶として残っている。

ちょうどポラロイド写真のように、印象的な情景が切り取られて、断片として覚えている。早い時期だと、赤ちゃんの時も、3歳くらいのころのことも、断片として覚えている場面がある。そのくらいの幼い時の記憶だと、細かな情報なくただ情景だけで覚えている。それが、母や父の思い出話と一致して、本当にあったことだったとわかることが多いのだから不思議なものである。

今もそういう風にいろんな情景を覚えているけれど、印象的な場面を覚える時はその前に必ず「ああ、これはずっと覚えていそう」と思う。心に刻み込まれるという感覚である。

それは決して、絵になる情景ばかりではない。大失恋して涙をこぼしこぼし自転車に乗りながら見たにじんだ冬の星空、なんていうきれいなものは滅多にない(そんな経験はもともとない。人としてそういう記憶がひとつくらいあってもいいと思うのだが全然無い)。

----
生まれて1歳にならない頃だろうと思う。私は肩から脇腹くらいまで黄色のフリルの付いた服を着せられて、靴下をはかされ、母の手で布団の上に座らされた。服はなかなか気に入っていたのだが、足先がもこもこして靴下は大嫌いだ。

それに布団の上で、ぐらぐらしてうまく座れない。バランスを崩し、片方の手を布団にトンとついたら、父がでかいカメラを構えてこっちを見ているのに気づいた。その時に見た、カメラを構えた父の姿を覚えている。

ぐらぐらしてとても嫌だったのに、母も父も助けてくれなかった。ずっと後になり、小学校高学年くらいになって、アルバムを見たらその時の私の写真があった。確かに黄色のフリルの付いた服を着て、靴下もはかされて、布団の上で片手をついたカメラ目線だった。写真の私は、髪の毛もろくに生えていないぶくぶくの赤ん坊だった。

----
最近になって一番びっくりしたのは、古くて暗い日本家屋の記憶だった。あめ色をした木の床で、外はなかなか閑静な感じの日本庭園。門は道路に面していて、道幅が狭い。でもなぜかそこは病院で、帰ってくると紙で三角形に包まれた薬を飲むのだ。私は自分で歩いたりできたから、3歳くらいだろうか。そういうのを、3つくらいの情景で覚えている。

一体どうしてそんな記憶があるのか、つい最近まで不思議だった。母と妹とよく行ったのは町立の病院で、三角形の包みのレトロな薬なんて出していない。だから夢で見た記憶だろうと思っていたのだ。

ところが、それは夢ではなかった。近頃両親が私たち兄弟を病院に連れて行った時の話になって、私と妹がごく小さい頃は、開業医の古い医院に通ったという。それで、私がさっきの記憶の話をすると、確かにその医院は狭い道路に面し、民家のような雰囲気で、あめ色の木の床で、静かないい雰囲気の庭があったというのである。そして、飲み薬は紙で包まれ三角形。私はその医院のことを覚えていたらしいのである。

われながら、自分の記憶が怖くなる。幼い頃の記憶はファンタジーである。

----
すっかり大きくなった今でも、印象的にある場面を記憶しているということはある。

非常階段から下りていく人の後ろ姿、ファミレスでメニューを広げたところ、友達と乗ったバスの中の様子、雨の中傘をさしてバスを待っていた時に見た情景。

本当はこういうつまらない記憶を蓄積するものなのに、この一年にたまった記憶はどの場面もひどく印象的だ。

癌で入院中だった祖父が、足にエアマッサージ器をつけてひと息つく顔。結婚式の控え室で、白無垢姿で煙草を吸った妹の姿。死化粧の代わりにクリームを塗ってあげた時の、祖父の青白くて冷たい頬。喪主挨拶で、涙に声を詰まらせた父の声。母が階段から落ちた時の荷物として届けられた、母のうす緑色のツーピースに広がっていた大きな血のしみ。亡くなる十時間前、私や妹の声を聞きつけて開かれた、薄い灰色に濁った祖母の目。

たぶん一生忘れない光景をたくさんため込んだ。あまりにハードすぎて、二度と戻ってきて欲しくない一年である。もうこんなに、人の生死の問題に頻繁につきあわされるのは嫌だし、振り袖姿や喪服の黒い着物で走り回るのももうたくさん。

もうちょっとコメディータッチな情景が増えたらいいのにと思う。人生には笑いが必要なのだ。

カッコ良くスポット浴びて新郎新婦入場したつもりが、途中でつまづきタキシード姿で派手にすっ転んだ夫のイタイ後ろ姿とか、鼻ちょうちんをふくらませながら幸せそうに眠る幼い姪っ子のまつげとか、電子レンジとエアコンを同時につけるとすぐブレーカーが落ちて大焦りの新居の真っ暗闇とか……とにかくそういうハートフルでちょっと笑える情景が今後の未来に増えますようにと心から願う。

 


日記才人投票ボタンです。
初めての人はちょっと手間かも。

1行メールボタンです。
内容は空でも結構です。



01/10/24(水) am もういない人

親しい人が死ぬというのは、何と大きなことだろうと、祖父や祖母の死からしばらくたって落ち着いた今になって、時折痛感する。

一人でいろんなことをやっているのが辛くなったとき、ふと亡くなった祖父と話をしたいなあと思うことがよくある。

祖父は生きている頃、茶の間の卓袱台の一番上座が指定席だった。そこでテレビの時代劇を見たり、煙管で煙草を吸ったりしていた。畑で働いていないときは、入院するまでずっとその場所にいるのが常だった。

私はずいぶん幼い頃から、自分のやっていることに飽きたり、他の家族たちが喧嘩してうんざりしたときなどは、必ず祖父のところに行って話をして、気分転換をするのが癖になっていた気がする。

祖父は基本的に激するということがなくて、寡黙に、時々ユーモラスに、私の話を聞いてくれた。いつも自分の味方でいてくれる、避難場所のようなものだった。

だからまだそれが抜けなくて、辛くなると祖父に会いたい気持ちになる。本当にふっと、自転車に乗っている時とか、学校から帰ってくる時とか、そういう時に。でもそれとほとんど同時に、でもおじいちゃんはもう死んじゃったから会えないなあ、と思って、何ともたとえようのないさびしい気持ちになるのである。

ああいう絶対的で穏やかな関係の人は、今後もう誰も出てこないだろうと思うと、もっとさびしい気持ちになる。かけがえのない人、という言葉が、レトリックでなく実感できる瞬間である。

----
この間、母と電話で話をした。現在妊娠2ヶ月で実家にやってきた妹が、「冷や汁」という郷土料理を食べたいと言って、祖母に作ってもらったらしい。

しかし、妹が食べたかったのは、父方の祖母の味ではなくて、今年の夏に亡くなった母方の祖母の味の冷や汁だったらしい。母方の祖母の冷や汁は絶品で、味付けも微妙なバランスがあり、材料も乾物のほたてや京菜など、一風変わった上品な取り合わせなのだ。

「おばあちゃんの味は、もう食べられないんだね」と、母と私は言いあった。私が母方の祖母を一番鮮烈に思い出すのは、こんなふうに祖母の料理を思い出す時である。

祖母は本当に料理が上手だった。ほんのり甘いあんをかけて、すり下ろした生姜を少しだけ添えた胡桃豆腐や、八重咲きの白菊の花のようにきれいに切って柚をのせた大根の酢漬け。ニシンを巻いた昆布巻きや、よく煮て味のしみた棒鱈。味醂のきいた卵焼き。妹が食べたいと言った、しゃきしゃきした京菜の冷や汁。おせち料理の伊達巻きや黒豆もちゃんと手作りだった。百合根の料理を食べられたのもここだけ。どれもこれもとてもおいしくて私は大好きだった。

たぶんもう二度と味わえない。祖母とは同居していたわけではないから、私たち家族が祖母の家に滞在するわずかな間に作って食べさせる食事で、精一杯愛情を与えてくれていたのだろう。手間のかかったであろう料理ばかりをいっぱい並べて、食べろ食べろとうるさいくらいにすすめて。あんなに一生懸命自分のために料理を作ってくれる人は、もうこの先、きっと誰も出てこないだろう。

そういうことを、落ち着いた今になってはっきりと思い出す。

----
輪廻転生関係の言葉で、「ソウルメイト」という言葉がある。人間の魂はあるグループを作っていて、何度転生しても、同じグループの魂は必ず何らかの形で深く関わり合うのだそうである。

そういうことがあるのなら、祖父や祖母にまたいつかの生で会いたいと思う。本当に「ソウルメイト」などがあるのかどうか、わからないが。

 


日記才人投票ボタンです。
初めての人はちょっと手間かも。

1行メールボタンです。
内容は空でも結構です。



01/10/21(日) am 誰も助けにならない

こう見えても二日分更新しています。スクロールして下の記事もお読み下さい。

----
両親が年老いたことを、つくづく感じる時がある。

たとえば、電化製品を購入するとき。たとえば、法律的な制度について知らなかったとき。私の両親は、もしかすると私の友達の親御さんたちよりずっと老いが早いのかもしれない、と思う。

----
先日、私の実家の電話回線が使いにくいということで工事をした。

うちの実家では茶の間に電話回線があって、そこからホームテレホンという形で(要するに家の電話間だけでやりとりができ、外部には発信ができない)モジュラジャックが両親の部屋に1つある。

これが不便だということで、両親の寝室の方も外部に発信できるように工事をしてもらった。この工事の申し込みも両親はよくわからないということで、私がNTTに電話をかけて手配した。

先日、この使えるようになった回線の方にファックス付きの電話機を移し、それで一件落着したはずだった。このファックス付き電話機にはちゃんと子機がついていたので、何の問題もない。

しかし、何を思ったか、ファックス付きの親機がきちんと両親の部屋についているにも関わらず、両親は残った茶の間の回線にも別な電話機を買ってきてつないでしまったのだ。何でも、祖母がそっちで電話を取るから必要だったのだという。

しかし、機種の違う電話をそれぞれの回線につないでしまったら、機種同士の互換性が無いため、両親の部屋で電話を取ったとき、どうやって茶の間に回したらいいのか、わけのわからないことになってしまうはずである。

しかし、両親はそんなことに全く気づかなかったようである。何も考えずに電話機を購入し、茶の間につないでしまったのだ。そのことに気づいたのは、数日後私が電話でその話を聞いて、2つの互換性について指摘したからだった。

両親はその場で、両親の部屋からうちに電話しながら、もう片方の電話機を取るということをやってみた。すると、あろう事か、両親の部屋の電話機で話している母の声も、もう片方の電話機を取った父の声も、全部聞こえるのである。

つまり、やろうとおもえば、両親の部屋で電話している内容を、祖母が茶の間でそーっと盗聴することができるのだ。

こういうことに思い至らず、安易に電話機を買ってしまう両親の判断力に疑いを持たざるを得なかった。そんなことくらい、どうして考えられないのか。普通の常識があれば判断できる範囲のことのはずである。

----
また先日、私はある事情で自分の国民年金の加入状況を知らなければいけなかった。

情けない話だが、国民年金の保険料の支払いを、私の場合は両親が代わって支払っているので、その状況が私にはよくわからない。そのため、支払いの状況がわかるものをもっているであろう両親に電話をかけ、尋ねたのである。

両親は私の国民年金の手帳を持ってきたらしく、それを見れば私が第一号か第二号か第三号か(そういう区分がある)、ちゃんと加入状況がわかるはずなのだが、一向にらちがあかない。

父「えーとお前は、第二号被保険者」
私「どうして? どこにそれが書いてあるの、ちゃんと書いてあるんだよね?」
父「うん、『第二号被保険者以外の被保険者』って」
私「あのねえお父さん、"以外"ってことは、私は第二号じゃないでしょう?」
父「だって書いてあるんだ、『第二号被保険者以外の被保険者』って」
私「いやだから、"以外"だったら私は第二号じゃないでしょう!」

全くらちがあかない。仕方がないから、今度は母に手帳を見てもらい、電話を代わってもらった。

母「第二号だって」
私「だからそれは、『第二号被保険者以外の』って書いてあるでしょう。"以外"なんだから私はそれには当てはまらないって」
母「だからそんなの、わかんなかったら仙台の市役所に問い合わせればいいじゃない!」
私「あのねえ、私の本籍はまだそっちにあって、そっちの役場からうちに請求が来てるんだから、仙台に聞いても無理なの」
母「…あそっか」

私の加入者番号まで書いてある年金手帳を持っているのに、どうして区分がわからないのか理解しかねた。絶対に書いてあるはずなのに、見えていないのだ。しまいには面倒くさくなって投げ出そうとする。まるで年寄りの反応のようだった。

私は情けなくなり、とりあえず役場の電話番号を聞いて電話を切った。するとしばらくして、父から再び電話があり、

父「わかった。お前は第一号被保険者」
私「ちゃんとそう書いてあるのね?」
父「うん、第二号被保険者以外の被保険者、の下に、第一号に○がついてた」
私「なるほど、ちゃんと○がついてたわけね」

私は深くため息をついた。まず第一に、親に書類を見てもらって答えが返ってきて、「ちゃんと書いてあるのね?」と根拠を念押ししなければいけないこと自体、情けない。でもそうしなければ駄目になっていることを、私はもうだいぶ前に気づいている。

念押しして根拠を言わせると、ちゃんと親の解釈が間違っていることもますます情けない。ちゃんと書いてあったのに、見えていなかったということがわかったのだから、もう私は情けなさを通り越して悲しくなった。私の親はもうこんなに年寄りなのだ。

他の友人の親御さんに会うと、うちの両親に比べて格段に元気なので驚いてしまう。年齢はさほどうちの両親と変わらないのだ。だが生命力というか、パワーが違う。

自分から電気屋さんに入ってパソコンや周辺機器を買ったりするのが趣味で、自分で何でも使おうとするお父さんの話や、わざわざ仙台にやってきて娘の引っ越しの手伝いをしてくれたお母さんの話などを聞くとうらやましくなる。

私の父は、パソコンを買うにも使うにも私に聞かなければ何も自分からやろうとしないし、自分で方法を開拓しようともせず、できる限り私にやらせようとする。私の母は、仙台にやってくるだけで体力の限界で、食事に行くにも買い物をするにも、自分でやってきたくせにぐったりとしている。とても、私の手伝いをしてくれるとは思えない。

そのくせ二人とも自分の仕事に力を入れすぎ、しばしば生命力を限界まで吸い取られて疲れきる。心のどこかで、自分たちが倒れれば私がやってきて手伝ってくれると思っているのが見え見えだ。自分自身のコントロールができず勝手ばかりで、迷惑だと感じることが時々ある。

親は本当に頼りにならない。親は頼りにならないし、他の他人などもっと頼りにならない。どこまで私は一人で物事を処理しなければならないのだろう、とぐったりしてしまう。恵まれている人より恵まれていないのは仕方ないことかもしれないと思うが、それでももう少し、どこかに助けがあってもいいのにと時々心底生きているのが嫌になる。

来年、4月に数週間の研修があってから、配属先が決まると引っ越しは3日間で準備しなければならないという。私は本当に不安を感じている。もし仙台に就職が決まっても、アパートは越すつもりだから、その時引っ越しの準備をしなければならない。しかし、両親があんなではとても手伝いを頼めない。むしろ、頼んだ方があちこちいい加減そうで心配だ。

物を持ったり運んだりするようなことをしたら、たぶん椎間板ヘルニアかアキレス腱断裂、うまくいっても転倒し骨折、一番軽く済んでも疲労のため苛立って大げんかを始めることだろう。

そうなると、私は3日間全部一人でいろいろやることになるのだが、本当に、途方に暮れてしまう。だからもう、研修の前に荷物を全部整理していくか、お金を何十万と貯めるか借りるかしてできるかぎり業者に任せられるようにしようかと考えている。なんだかもう、本当にぐったりする。

今まで25年も生きてきて、引っ越しの手伝いを頼める人ひとりいないとは、私の人生って一体何なんだろう。

01/10/20(土) am あなたはどっち

あなたが、今すぐ小説を、それも恋愛小説を書け、と言われたとして、あなたは次のうち、どのパターンの恋愛小説を書くだろうか。

1.「曲がり角」型ラブコメディ(遅刻しそうになって走っていると曲がり角で見知らぬ誰かと激突する。それは今日からやってくる転校生で、その後のホームルームで再会する。お互いにつっかかりながらもひかれあい、やがて紆余曲折の末恋愛に発展していくドタバタ学園ラブコメディ)

2.「略奪」型ラブロマンス、ハーレクイン風(大国の王子に嫁入るはずだった姫が海賊にさらわれる。初めは海賊を軽蔑しきっていた姫だがやがて意外と紳士な人柄に心惹かれ、しまいには城に帰りたくないと言い出す。だが実は、その海賊こそ姫が結婚するはずの王子だったという、ちょっとあり得ない上に危うさ漂う一歩間違えばアダルトのラブロマンス)

3.「セカンドラブ」型ハートフルラブストーリー(妻を失って失意のどん底、恋愛なんてもう二度とするもんかな男の前に、彼を愛するけなげな女の子が出現。好きな男の心の中に他の誰かが住んでいることに胸痛めつつも、それを受け入れながらがんばって二人の愛をはぐくむ、全体的に苦みのあるラブストーリー)

4.「ロミオとジュリエット」型悲恋物語(大火災の中で偶然出会い、一緒に逃げる途中で恋に落ちた二人。しかし名乗り合ってみると、それはお互い愛してはいけないはずの敵方の人間だった。忘れられず密かに交際を始めるがいつしか両家の諍いに巻き込まれ、二人の恋は無惨にも押しつぶされていく…後味の悪さの中に切なさ残る悲恋)

5.「源氏物語」型恋愛オムニバス(主人公は超プレイボーイ。回ごとに相手が変わり、様々な女性と様々なシチュエーションの恋愛を繰り広げる。一話完結なので飽きの来ない、しかしネタを考えるのが大変なオムニバス恋愛小説)

----
これは迷う。今更時代遅れのようで一度は書いてみたいべたべたな「曲がり角」型に、R指定にならないようがんばってぎりぎりを突っ走る「略奪」型、でもやっぱり落ち着いて現実の地平にぺったり足をついた「セカンドラブ」型も捨てがたく、かといって多幸感ならぬ不幸感にどっぷり浸かってトリップできる「ロミオとジュリエット」型もいいし、そうするとやっぱり全部を足し算して一つずつやっていける「源氏物語」型の方がいいのか。

うーん…こんなどうでもいいことで悩めるのって幸せだなあ。

01/10/18(木) pm 狼と赤ずきん

こう見えても3回分更新しています。

----
とても不思議なことなのだが、全く同じ場所で、全く同じ人間が、全く同じことをするということがしばしば起こる。同じ間違いを繰り返すように、しっかりプログラミングされているかのように、全く同じことを、同じように。

同じ過ちが繰り返されているのを目の前にしても止めることはできず、ただ見守り、同じことが起こるのを待たなければいけないということも多い。いつかの誰かと同じ姿をした人が同じようになるのを、ただ見ていなければいけないということが。

あの日の赤ずきんと同じようなアナザー・赤ずきんは次々と狼の罠にかかってしまうのである。狼は赤ずきんの娘が大好きで、アナザー・赤ずきんにも同様に、狼の声は甘く響く。

狼の通り道を避けることを覚えた、もうとっくに赤いずきんを脱ぎ捨てた娘は、森に入っていく次の赤ずきんの様子をちらちらと見るが、その先に罠があることに気づいても教えることができない。過去を思い出すだけでも、いつもは服に隠れている胸元の古い傷が痛むからだ。狼の爪の形に刻まれた深い傷である。

狼とは好みのうるさい生き物らしく、自分に負けないだけの抵抗力を持った少女を好まない。胸に鉄の胸当てを仕込んでいるような少女は巧みに避けて、自分の攻撃を丸腰で受ける、傷つけやすい者だけをターゲットに選ぶ。柔らかい皮膚に爪を立てる感覚を何より求めるのだ。

狼はそれが好意の表現だと思っている。赤ずきんに死ぬような痛みを与える行動が、ただの握手のつもりなのだ。狼が赤ずきんを気に入れば気に入るほど、赤ずきんの命は危険にさらされるにもかかわらず。

----
何だか吐き気がしてきた。こんな気持ち悪い話を考えずに、もうちょっとすっきりした話を考えよう。

----
森の中で、狼と赤ずきんが繰り広げる壮絶な死闘、というのはどうか。ワイヤーアクション満載で、赤い吊りスカートのまま跳び蹴り回し蹴り踵落としを華麗にキメる赤ずきん。鋭いツメと冷たい牙で赤ずきんの血を見たがる狼に殴る蹴るの暴行。

狼も負けてはいない。連続しっぽ振り回し攻撃で赤ずきんの追撃を振り払い、腕を掴んで赤ずきんの背中を力一杯木にたたきつける。赤ずきんの意識が一瞬遠のきそうになったところで追いつめ、首に手をかけ掴んだ腕に爪を立てる。爪の食い込む感覚に狼は目を輝かせ、思わず注意がゆるむ。

すると赤ずきんはかごのワインを素早く手に取り、狼の頭頂部を思い切り殴る。飛び散る緑色のボトル片。流れる赤ワインで視界を妨げられた狼は、そのすきに赤ずきんの腕を放してしまう。悔しがる狼。ゆがめた狼の口元からのぞく銀色の牙。

----
うう、何だか、これはこれで気持ち悪くなってきた。

01/10/16(火) pm 彼女たちの別の顔

忘れたいことがたくさんありすぎて、どうにもならない。意図的に自分の記憶の消去というのはできないんだろうか。覚えているとろくなことがないようなことばかり忘れられない始末である。

今の私が本気になって手放したくない過去の記憶といえば、去年亡くなった祖父の思い出くらいのものではないのか。

でももし今夜あたり白いひげの神様が枕元に立って、

「そんなに願うなら、消去してやるけど」

と言われても、いざ喉元につきつけられてみると

「いえ、全部覚えていたいので消去はなしでお願いします」

と頼みそうな気もする。でもやっぱり、結局私の頭の中に詰まっているのは忘れた方がいいようながらくたばかりなんだけど。

ああ、頭の中でABBAの「S.O.S」が響く。

----
他の人の人生を見ていると、人生はドラマのようだとよく思う。人の人生を逐一取材して、一生懸命文章で再現したらさぞ面白いに違いない。

今一番取材したいのは、女の子にもてるプレイボーイタイプの人の生活およびその周辺である。

私の主眼はその人自身を描くことではない。その人の前に出てくる女の子の態度や行動や姿顔つきや言葉遣いや、そういうものを、プレイボーイをいいエサにして見てみたいのである。

女は好きな異性の前では普段と別のチャンネルになるという。全くの別人格が現れているのかもしれない。ずっと昔、私の友人がつきあっている彼氏といるところを別の知り合いが目撃し、そのラブラブさ加減を報告してくれたことがあったが、普段の彼女からは想像もできない、耳を疑うような事実がそこにはあった。思わず吐き気がした。

私は気づいた。女は、同性の友達には絶対に見せない、何か裏の顔を持っているらしい。ギャップの大きさの違いだけで、それは多かれ少なかれ誰しも持っているものらしいのである。

普段は絶対見ることができない、女が異性の前だけで見せている姿を、そーっと陰から盗み見して逐一取材し、文章で再現する。これほどエキサイティングなことがこの世にあろうか。

おそらく同性の私はそれを見るとこの上なく不快だろう。どれほど醜い姿か想像に難くない。同性のみなさんが異性の前でしか見せない、執着だとか媚びだとか本能だとか、それはもういろいろ見ることだろう。

しかも私が媒介役にするのは、同じタイプの女の子としか恋愛をしないようなイタイ男の人ではなく、どんなタイプにも一通り食欲をおこす恋愛蒐集家な「プレイボーイ」である。

同性の、バラエティに富んだ醜さを見せつけられ、もしかすると、それだけのバラエティの中には思いがけずすがすがしい潔さを見ることもあるかもしれない。とにかく、女をきちんととらえるためには、女を取材しても意味がない。女の主観は自分が感情移入できるからある程度は察することができるが、男から見た女の姿だけは同性の自分には想像もできない。

だから、そうやって「プレイボーイ」を取材していくことで全体としての女をとらえてみたいような感じがするのである。ああ、楽しそう。

そういえば、プレイボーイとたくさんの女性という話はもう平安時代にあったことを思い出した。でもそれを書いた人が、私のように異性の前での女の姿を「醜い」「不快」という言葉でとらえていたかどうかは謎だが。

私の場合は、この世で最も醜いものだろうけど是非見てみたい、という好奇心が強いから興味がひかれるのだが。

私から見て吐き気がするような醜さが、「二人の世界」とか「恋愛」とかいうエンドルフィン的なものを通せばとても美しい物語になってしまうのも、これまた後引く楽しさであること請け合い。

女の人たちの醜さが渦巻く中であっぷあっぷとおぼれそうになっている、案外しょぼい「プレイボーイ」の舞台裏を知るのも楽しそうだし。

ああ、こんなことばかり思いつくようだから、私って…

01/10/15(月) am my wife died

今日は午後に園芸をしていた。ずっとベランダにいたので顔がやけたようだ。

日々ますます園芸が好きなのは別にいいとしても、ベランダに虫が発生したりして驚くことがある。ついうっかりしている間に、ハンギングバスケットのアゲラタムにアブラムシがつき、あっという間にやられてしまった。

1株50円で買ってきたリーズナブルな花だったが、花期が長くてずっとたくさん花をつけてくれていたのに。学生の時のお手軽恋愛で結婚しながらも、何十年と連れ添って毎日食事を作ってくれる古女房のようなすばらしさだったのに。まるでそんな古女房をあっという間にガンで亡くした気分。

とにかくそのために、今日の午後は虫の駆除と他の植物のチェックおよび掃除で大変だった。

一年草に虫が付くのはいいとしても、今年の春から大事に育てている梅もどきの芽がやられたら大変である。これは妹の旦那のケンちゃんがタネから育てた大事な苗を分けてくれたのであるから、アブラムシに食わせるわけにはいかない。打倒アブラムシ。

うちで文字通り一番の「古株」は、大学に入った年の冬に購入した観葉植物第一号のベンジャミンである。これはもう本当に徒長してしまって、5年前は50センチほどのかわいらしさだったのに、今は三倍に成長。私の背丈まで届きそうなくらいなのだ。しょうがないから取り木をしたら、それだけで50センチくらいのが2本できる。

それで親株の方は廃棄しようかと思っていたのだが、ここに来て信念がぐらついている。スタンダード仕立てが見る影もなく荒れて、鑑賞価値はもうあまりないのだが、それでも捨てるのはためらわれる。

体が痛いときもインフルエンザで一週間寝込んだときも、胃を壊して体重ががっくり減ったときも資格を取りにスクール通いしていたときも、ずっと一緒だった。3回も植え替えをしてここまで大きくしたのに。いくら取り木で子供がいるからってこっちを捨てることはできない。ああ、こんな感じで人は古女房と離婚できないのだろうか。

----
この間内定式のため東京に行ったときに、ハムシーというかわいらしい多肉植物を購入した。きちんと植えるのをさぼっていたのでついこの間までぐったりしていたのだが、昨日きちんと大きな鉢に植え替えて水をやったらうれしそうに葉っぱがふくれてきた。

植物は動きがあるから面白い。そして相手の考えていることもわからないからなお面白い。よくリサーチして、手探りで相手の気に入られそうなことをやってみて、成功するとうれしい。相手がしゅんとなった時に原因をいろいろ考えたりするのも楽しい。

人間と違って、じゃまが入らずずっと一対一で向き合っていられるし、完全な「ひとりと一株の世界」に入っても誰にも何も言われない。

---
私はもしかして、人間関係に疲れ果てているのだろうか。確かに、どうしてもっとシンプルになれないんだろう、どうしていいわけが必要なんだろう、とよく思う。人間は賢すぎてややこしい。植物の方がずっとシンプルで、裏切らず、利用せず、正直だ。ついでに男女の区別もない。

ああ、やっぱり疲れ果ててる。

01/10/10(水) pm 園芸が熱い

私の中でここ数ヶ月ものすごく園芸が熱い。今年の春から熱かったが、最近はヒートアップ寸前である。自分を抑えられない。

今年は春にシソとオクラを作り、見事シソだけ成功。夏に白い花が咲き誇った。たくさんできたがもったいなくて食べられなかった。

ついでにハーブのナスタチウムも種をまいて作ったが、うちのベランダで育てきれず、10センチほどに育った苗を実家に送って地植えしたら見事に今花を咲かせているらしい。

今はベランダでハーブを育てることにすっかりはまりこんで、秋まきの時期に種まきして一生懸命育てているのだが、仙台は日照が少なくて困っている。もしハーブができたらワインにつけ込んで徹底的に飲むつもりである。健康になってやる。

私はインドアな趣味が多いのだが、園芸まで来ると本当に主婦のようである。縫い物も編み物も好きだし、料理もやれといわれればやるし、インターネットに園芸、レンタルビデオに音楽、今すぐ結婚して家に入ったら至福の生活を送れるのではないか。でもこういう人間に限って結婚とは全く縁がない。さようなら私の幸せ。

実家に帰って、妹夫婦が車でホームセンターに連れて行ってくれるとそのたびに目を輝かせながら園芸コーナーでひたすら苗を買う私に、妹はあきれたようにいつもこう言う。

「お姉ちゃんさあ、年寄りになってもそうやって一人で楽しくやってんだろうね。その姿が見えるようだよ」

今年はとうとう、農家のおばさんがかぶるような帽子をかぶって、ひと夏実家の手伝いのかたわら園芸にいそしんでいた。我ながら思い返すとあきれる。

で、今なぜハーブかと言えば、何より強いし、手触りとか香りとかフェティッシュな楽しみ方ができるからである。姿がきれいなだけではどうも物足りない。葉をさわってにおいをかぐと頭がシャキッとするような香りのものもあるし、「これが植物か?」と疑問に思うほどふわふわした質感の葉っぱもある。

派手すぎない、ストレスフリーな姿も魅力的だ。たぶんダイレクトにただ、「癒されたい」だけかもしれない。ハーブよ君は、植物界のビューネ君。

----
ハーブ好きというと、今年の夏印象的な出来事があった。

例によって実家に帰省中、庭にたっぷりハーブを植えたいという父の意向で、いつものホームセンターに買い物に行った。ちょうどハーブにはまりだした頃で、私は野外の苗売り場にハーブだけのコーナーを見つけ、良さそうなのをたくさんカートに積んでレジへ向かおうとした。すると、父が通りがかった女性に大きな声で挨拶をした。

「やあ、どうも! お買い物ですか?」
「あら、どうも。そうなんです」
「ご主人は?」
「ええ、あっちの方にいて何か見てるみたいです」
「こっちはうちの娘です。長女で」
「こんにちは。はじめまして」
「こんにちは。もうこんなに大きくなられて。頼もしいでしょう」

それは、40半ばほどの女性だった。私の方を見てまぶしそうにしていた。セミロングほどの髪をアップにまとめて、おとなしい色のツーピース。体型はやせ気味で、肌は年相応に多少の老いが見える。だが世間一般の40代の「おばさん」のような図々しさがなく、まるで少女のままのような繊細な雰囲気を持った奥さんであった。

「たくさん買うんですね」
「うちにハーブをたくさん植えようと思いまして」
「いいにおいだこと」
「ハーブ好きなんですか」
「ええ、この香りがよくて。何ともいえませんね」

彼女は私がカートに積み込んでいるハーブを見て目を細める。

ある意味、40代の「おばさん」の図々しさはあふれる生命力の結果だろうと私は思っているのだが、その女性にはそういう生命力が欠けているように思えた。高原のサナトリウムで白いワンピースを着た少女がそのまま年をとると、こうなるような感じ。

私の母も死ぬほどの大けがをしてからそういう弱さを持つようになったが、それでもここまでには到底なれないような雰囲気を彼女は持っていた。若々しさはないけれど、「おばさん」ではなく、「40代女性」という形容がよく似合う。

そうやって私が瞬時にいろいろ分析していたとき、遠くのレンガ売り場から元気のいい声がした。

「おう! こんにちは!」
「どうも!」

父がそちらに向かってまた大声で挨拶する。よほど親しいらしい。この女性の旦那さんのようだった。奥さんとは打ってかわってこちらはエネルギッシュなおじさんだ。父は旦那さんの方に行ってしまい、私は奥さんと二人で取り残された。

どうもこの奥さんと話をしていると、悲しい感じになる。私はその人につきまとう何ともいえない寂しさに疑問を感じながら、ハーブの苗がどこにあったかを教えてあげて、レジに行くために別れた。

買い物が終わり、帰る車中で父があの夫婦の説明をしてくれた。それは、私も話で聞いて知っている小さな印刷所のご夫婦だった。うちでよく年賀状印刷を頼んでいる。

「あの夫婦には、子供がいないんだよ」

父が言った。それで全部理解できた気がした。

「すごく欲しかったようなんだが、結局できなくてなあ。だからその分、夫婦で仲良くいろいろなことをしているんだ。今日みたいに買い物したり、旅行したり」

私は奥さんが私を見たときの、寂しそうな、まぶしそうな目を思い出した。私の姿を見て「頼もしい」と言ったあの台詞がずっしりと胸に響く。そう言えば奥さんはハーブの香りが好きだと言っていた。

ハーブの香りには、精神的な不安定さやストレスを取り除く働きがある。その証拠に、祖父が亡くなった直後悲しくてともすれば泣いてばかりいた祖母も、毎晩ラベンダーの香りのする線香をたけばリラックスしてよく眠っていた。私の祖母も性格的には起伏の激しい人だが、どこかもろい人とハーブはよく合うのかもしれない。

子供が欲しいのにできず、夫が亡くなってしまえば自分はたった一人。年老いても頼る子供は誰もいない。老いていく不安を補ってくれる人は誰もおらず、悲しさにつぶれそうなときにハーブの香りで自分を落ち着ける…というバックグラウンドが全部見えた気がして、とても寂しい気持ちになった。

子供を産んだことのない女性。だから奥さんはあんなにか弱い感じがしたのであろう。「おばさん」でなかったのもうなづける。

女の人は、ただ年老いて「おばさん」になるのではない。結婚し、出産し、大声を張り上げなければ聞こえないほどの騒々しさ、子供たちが走り回って作り出す家庭のにぎやかさの中で生命力を獲得し、その生命力で「おばさん」になるのだ。

か弱い少女が「おばさん」になってしまう…それはある意味悲惨でもあるが、この上なく幸せなことなのかもしれない、と私は思う。結婚した女性の胸元に脂肪がついてつやが出るのを「幸福な人妻にしかつかない脂肪の輝き」と形容したのは林真理子だが、言い得て妙。

もっと言うなら、出産と育児を経ていく幸せな中年時代が、女性の体にもっと脂肪を付け、頬につやを与える。あの奥さんには、その「照り焼きチキン」のような幸福さがなかった。その分容姿の崩れが少なく、決して不幸ではないが、奥さんのあの根の深い寂しさは消えることがないだろう。

子供がいない分、夫婦には結構な経済的余裕があるらしい。家も車もなかなかいいと父は言う。印刷所はさほど儲かっていないが、だからといって大きな支出が必要なわけでもない。夫婦は仲良く暮らしている。

そんな静かな生活と、裸の赤ん坊のおしりをバスタオルを持って追いかけ回し、大げんかをする息子たちを黙らせ、反抗期の娘に手を焼きながら、ごちゃごちゃした狭い家と走行距離10万キロの車を持つ騒々しい生活と、どちらがよいか私にはよくわからない。

ただ私は帰りの車中で、あの奥さんがハーブの香りで癒され、少しでも寂しさを紛らわせて欲しいと思わずにいられなかった。

----
何かこんなに重い話を書いてしまうと、ハーブで癒されたい私の悩みなどとんでもなく小さなものに思える。超軽量的悩み。

01/10/9(火) am 月に飛ばして

最近悪夢ばかり見る。こないだは父方の祖母の葬儀の夢を見て、昨日は家族全員の乗った乗用車が道路から田んぼに落ち、助手席の母が首にけがをする夢を見た。

さっきも疲れて少しうとうとしたら、熱が出たようになって心臓はどきどきするわ、妙に不安な気分になって目を覚ますわ、大変だった。

----
年をとったせいなのか、最近バスでお年寄りに席を譲るのに何の抵抗もなくなった。

高校生の頃はバスに滅多にお年寄りが乗ってこないこともあったし、どことなく抵抗があってできなかったのだが、最近は全くそんなことがない。何しろ時間帯によって、バスの乗客の8割が見るからに70歳以上のお年寄りということもある。

その上私の家に向かうバスは大きな病院の前を2つも通る。特にその2つのバス停から乗ってくるお年寄りは体調も悪いのだろうから、ますます立たせておくとあぶない。そういうことを考えていると、譲るのに何の抵抗もなくなってしまう。

仙台市には敬老乗車証というのがあって、お年寄りは70歳になるとバスや地下鉄をタダで乗れる券が渡される。伊達政宗の水玉陣羽織の模様をあしらったなかなか渋い券で、お年寄りは必ずその券をホルダーに入れて大事そうに持ち、なかなかアクティブに動けるようだ。

年中お年寄りがいっぱいいるバスに乗り慣れた仙台の高校生たちは、自然に身に付いた習性なのか、よく席を譲る。お年寄りがたくさん乗ってきたとき、それまできゃあきゃあ話をしていた女子高生が席を譲るというのを何度も見たが、全く感動の一言。

しかしこの間、本当に不愉快な場面を目にしてしまった。

それはバスが大きな病院の前のバス停に停車したときだった。平日の午前中で、バスの中は混雑していた。そこへまた病院帰りの人々が乗り込んでくる。もちろん半分以上はお年寄りだ。

車内はぎゅうづめとなり、バスがゆるゆると動き出す。するとそのとき、ある老人男性が、車内後部の二人乗り座席に乗っているらしい女子高生にこう言った。

「おまえら若いくせに、席譲れ! どけ!」

女子高生はしばしびっくりしていたようだったが、老人の剣幕に恐れおののき、席を譲った。老人はといえば、女子高生をどかせて自分が座った後でも、

「なんなんだ一体、ふざけんなっていうんだ」

とぶつぶつ悪態をつきつづけていた。

さすがにこんな光景は初めてでびっくりした。高齢化社会もこうなってくると恐ろしい。私は基本的には「年長者は敬え」という儒教的な考え方の人間ではあるが、こんな悪質な高齢者を敬う気にはなれない。

こんなに高齢者が多いというのに、仙台市はなぜかワンステップバスとかいうものを多く導入し始めている。ワンステップバスは階段が1段しかないのはいいが、その分なぜか車内の空間が広くて座席の数が少ない。

車椅子の人に考慮しての設計だろうが、座席数が少ないせいでこのバスに当たると若者はまず座れない。普通なら座席になるはずのスペースもものを置くスペースになっていたりして、とにかく無駄が多いのだ。それに、車両後部から前部にかけて緩やかな坂になっているのが、バスが停止しかけたときの移動時に非常に危ない。

年金制度といい、このバスのことといい、若者の権利は今後ますます縮小されていくんだろうか。そのくせ私たちの世代が年をとっても、今のお年寄りほど元気ではないと思う。ストレスが多く、質のよい食べ物が少ないし、空気も汚いし、電磁波も化学物質もめいっぱい浴びている生活が体にいいわけない。今すぐ年をとって老人になりたいくらいである。

 

more diary

home