| (前回の日記で、去年の日記の日付が全部2000年だったことに読者のみなさんはみんな気づいていたに違いないと思ったんですが、どうも違うようです。メールをお寄せ下さった人はみなさん、気づいていなかったそうで…その方がむしろありがたいです。私を恥から救ってくださってありがとうございます。)
---- 整体の帰りに古本屋を見たら、「パタリロ!」の古いコミックス数巻と「お父さんは心配症」の1巻があったので、考える間もなく買ってきてしまった。
「パタリロ!」は、知的でスピーディな展開と卓抜したストーリーを作る作者のセンス、レトロで矢継ぎ早なギャグが面白くてついつい読んでしまう。
今時、「東山三十六方草木も眠る丑三つ時、どこで鳴るのか夜陰の鐘が陰にこもってものすごく…」などというのをギャグの枕に持ってくるマンガなんてこれ以外はほかにない。
もし、「ベルサイユのばら」か、「パタリロ!」かどちらかひとつ選べと言われたら間違いなく「パタリロ!」を選ぶ。どうせ画面にバラが出てくるのに違いはないんだから(たぶんこれは問題発言)、それならパタリロの方がよっぽど面白い。
たぶん私は、幼い頃からすでに「パタリロ」好きだった。私が小さい頃に「パタリロ」がアニメ化されていたのだ。記録によれば、私が幼稚園の年長組の頃だったらしい。
パタリロに出会った頃の私は6歳。毎日、ご飯の入った「魔法少女ララベル」柄のアルミの弁当箱と、黄色いカバーの「れんらくちょう」を入れた幼稚園バッグを肩から下げ、夏の頃には何の因果か「まいっちんぐマチコ先生」のマチコ先生がスカートをめくられている絵(はっきり覚えているが、間違いなくパンチラだった)が大きく描かれたビニールの水泳バッグ(これを妹にもおそろいで平然と持たせていたうちの母は相当問題…でも教員)を持って、車酔いでふらふらになりながら幼稚園バスで幼稚園に通っていた。私(6)のクラスは「はと2くみ」。
知っている方にはわかると思うが、「パタリロ」は小さい子供に見せるには設定にやや問題が残る(私は別にいいと思うんだけど一般のお母さんの中にはびっくり仰天する方もあろう。うちの母はびくともしなかった……が、教員)。
私の母は「パタリロ」が始まる時間になると「ほら、パタリロが始まるよ」と、私(6)に促していた記憶がある。私の母は自由な思想の持ち主だったに違いない(そう信じたい)。
母が私(6)に見るよう教えてくれたことがよく記憶に残っているのだが、ということは、私(6)がこのアニメをよほど好きで見忘れるとそのたび残念がっていたのだろうと思う。確かに私(6)はクックロビン音頭のオープニングや登場人物の派手さ、そして金髪のきれいな人(たぶん間違いなくマライヒ)が毎回決まって「バン…」と気だるげに登場するのを見るのが大好きだったような気がする。
でもこんなパタリロ大好きの私(6)にも、「パタリロ」を見た当初から不思議に思っていることがあった。それは、
(どうしてこの金髪の女の子(注・マライヒのこと)は、女の子なのに「ぼく」って言うんだろう?)
子供の私(6)には、バンコランの天然アイシャドウとか、オープニングのクックロビン音頭の変なフリつけや不条理な歌詞などはごく自然に受け入れられたらしい(子供って恐ろしい)。しかしながら、マライヒの存在の不思議さだけは、どうにも引っかかったらしい(やっぱり、子供って恐ろしい)。
私(6)には、バンコランとマライヒが恋人らしいということは理解できた。そこから芋蔓式に考えて、バンコランは男だからマライヒは女の子のはずで、とするとマライヒが「ぼく」という一人称を使うのはおかしい、と思ったのである。
そこで、私(6)はひらめいた。
「そうか、この金髪の人は、女の子だけど「ぼく」って言うのがクセなんだ!」
どういうきっかけでそんなことをひらめいたのかは忘れたが、とにかく私(6)は当時「こりゃすごい名案を思いついちゃったな」と自画自賛だった。確かに現在の私(25)から見ても、こりゃすごい名案だ。ちゃんと回答の二つの可能性のうち、片方を突破口にして納得したんだから。えらいよ、私(6)。
ところが、私(6)は自分の判断だけでは不安だったので、一応母に確認してみたくなった。今日も金髪の人が、「バン…」と気だるげに登場し、「ぼくは…!」って怒る。うーむ、また「ぼく」だぞ。そこで私(6)は、母に聞いた。「ねえお母さん、どうしてこの金髪の人は、女の子なのに「ぼく」って言うの?」
母はどさくさに紛れて私の質問を無視した。そこで私(6)は自分が考えた名推理を母に披露して同意を求めた。
「あのね、この金髪の人は、女の子だけど「ぼく」って言うのがクセなんだよね?」
母は最後まで、はっきり答えてくれなかった。そのため不完全燃焼な私(6)だったが、それでも自分の推理で何とかこの疑問を終いにしたのである。
そう、私(6)は無邪気だった。可能性のある二つの回答のうちもう片方は、思いつきもしなかった……まさかあのきれいな、金髪の長い髪のひとが、バンコランという男性の恋人であるあのひとが、美しい「少年」だ、なんてことは……
私(6)の質問にたぶんあえて答えなかったのであろう母には、心から拍手を送りたい。耐えてよく頑張ったんだね、お母さん。でも、私(6)の名推理に「そうだよ」と同意もしてくれなかったんだね、お母さん。涙が出てきます。
「そうか、あの金髪の人は男だったんだ!!!!!!!!!!」と私にコペルニクス的転回(まさに天動説→地動説くらいのものである)が起こったのはいつだったか、もう思い出せないが、その時の衝撃と言ったらたとえようもない。たぶん小学校も高学年以降のことだったろうが、これはまるで雷が落ちたような大発見だった。
だけど、6歳の私には心から拍手を送りたい。子供はすごいな。確かに名推理、ナイスファイト。これだけの思考を費やしたのである、「初恋はいつ、だれに?」と聞かれたら、「6歳の頃。相手はマライヒ」と答えてもいいくらいだ。恥じることは何もない。
---- 幼稚園のころに「パタリロ!」のアニメが大好きだった子供は、何年かして今度は妹が買ってくる月刊誌「りぼん」を読むようになった。いたいけな少女時代のはじまりか?
だが「パタリロ!」が好きだった私だけのことはある。「りぼん」中最も大好きだった連載は「お父さんは心配症」。この作品は私(9)の指向のど真ん中を見事ぶち抜き、現在の自分にも残るスピードとセンス重視という傾向のベースがここに完成されてしまった。神は私を放さない(神のせいにすんな)。
「お父さんは心配症」のキャッチコピーは今も忘れない。毎回誌上に一回は書いてあった……「少女マンガ界に咲くドクダミの花」。
私(9)は、「250万乙女の恋のバイブル」というキャッチの「星の瞳のシルエット」の250万倍は「お父さんは心配症」の方が好きだった。どうして「お父さんは心配症」は巻頭カラーにならないのか、ふろくにならないのか、読者全員プレゼントの企画が起こらないのか、不思議でならなかった。その当時の私の考えはこうだ。
「「星の瞳のシルエット」なんて、始まって1コマ目で香澄が久住君に「好きだ!」と言えばその場で最終回。だけど、「お父さんは心配症」はそんなもんじゃないんだからね!!」(確かに、そんなもんじゃない)
もしふろくに「お父さんは心配症レターセット」とか、「お父さんは心配症着せ替えセット」、あるいは「お父さんは心配症ハウス」とかがついていたら、私は決してふろくを毎月妹にきれいさっぱりあげるようなことはしなかった。たぶん「お父さんは心配症」のふろくだけは妹にやらなかったに違いない。
絵柄は未完成なのだが、この作者の世界観たるや実に素晴らしい。一話に一回は必ず出刃包丁と流血があり、極太の毛筆で「うを〜〜」と書かれた少女マンガなど他に見ることはできない。作者(女性)は連載開始時どうやら17歳だったようなのだが、若気の至りなどでは説明できぬ物凄いパワーと才能に満ちた傑作である。
---- 「お父さんは心配症」の連載終了後、「こいつら100パーセント伝説」の人面瘡ネタなどでバカウケしているうちに高校生になった私は、今度は「伝染るんです。」を連載ではなく単行本(ハードカバー)で欠かさず買って、祖父江慎の素晴らしい装丁を楽しみながら、ハワイに行けないかわうその顛末などを面白く読むようになるのだが、その話はまた機会があったらゆっくりと。
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