転機の年の夜が明けた。

 

 

 

02/1/31(木) am 持つべきものは、友達
ここ数日、体調が悪いのに病院に行って検査しても原因がわからず、本当に不安だった。

もう数時間痛みが続いたら子供でも産まれるんじゃないか(もし産まれたら一体誰が産まれるのか全くもって恐ろしいが)というくらいの腹部の激痛に一晩のたうちまわって、最初に行った病院に専門の科がなかったので原因もよくわからなかったわけである。

おかげで二回同じ病院に行ったのに紹介状を持たされてもう少し大きな病院に行くことになり、腹部のエコーなどをとって、結局最初の病院で言われていた大したことのない病気だったことが判明した。大したこと無い病気なのに、私の症状が普通よりひどくて、専門外のお医者さんがびっくりして別の病気を疑ったらしい。

紹介状を持たされて診察し直しとか言われると、やっぱりどうしようもなく不安になる。毎回具合が悪くて病院に行くたびに不安になるが、今回は特にひどかったので友達にいろいろ助けてもらった。電話で話をしてもらったり、一緒にご飯を食べてもらったりしてどうにかこうにか不安を和らげられたので本当にありがたかった。

自分が何か重い病気かもしれない、と思った時、案外親や兄弟はあてにならない。とにかくうちの家庭の場合、全くあてにできない。もし入院しても両親はつきそいや手伝いとかをしたら自分たちの方がぶっ倒れるだろうから、心配で私がますます具合を悪くしそうである。弟は「俺は14日までテストだからもし入院してもそこからしか手伝えない」と冷たい返事。臨月の近い妹ははじめからあてにしていない。

小枝も束になれば折れない、それが家族だ…と「ストレイト・ストーリー」でアルヴィンは家出少女に諭していたが、うちの家族は折れた小枝、あるいは折れそうな小枝、あるいは小枝ですらないどろどろの物質というメンバーばかりなので、束でもムダなのだ。

とにかく何でもなくてよかったが、たぶんもし入院になっていたら準備は自分でやって、入院後は友達に助けてもらうことになっていただろう。肉親をあてにできない境遇にあって、いい友達がたくさんいるのはありがたい。本当にありがとうございます。

これで病気が大したことないとわかったので、さっさと治してまた京都に旅行に行く計画を立てよう。私の部屋では今ヒヤシンスが満開で、ドアを開けるといい香りが玄関まで漂っている。秋の修士論文が忙しい時期だったが、球根を植えておいてよかったなあ。きれいに咲いて嬉しい。

 


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02/1/26(土) am ゆるい悪夢を生き抜く力
ここ3日ばかりずっと体調が悪かったが、やっと日記が更新できる程度まで回復してきた。だが、ゆるめの悪夢を見ているような居心地の悪さはずっと続いている。

最近、テレビドラマ「彼女たちの時代」を仙台で再放送しているので、たまたま今日見たのだが、これも生ぬるい悪夢のような内容で、辛気くさくてたまらなかった。

日常生活で実現しうる本当の悪夢っていうのは、包丁が出てきたり誰かに殺されそうになったりするようなジェットコースター的なものではなく、こういうゆるゆると首を絞められるようなものである。天井の閉じた、窓のないドームがかぶさって、だんだん息ができなくなるのだ。

だが、「彼女たちの時代」に出てくる人たちそれぞれがえらく暗い顔をしている理由というのは、どれもこれも大したことはない。けりをつけようと思えばいつでもつけられるようなつまらない事で、まるでこの世の終わりのように悩んでいる。

上司が嫌いならはり倒してさっさと会社を辞めれば済むことだし、そうでなければ片意地はらずに迎合するという手もある。将来の見通しの立たないろくでなしの彼氏にうんざりしているなら、別れて次を探せばよい。営業成績を本当に上げたいなら、プライドをとっぱらってエリートの友人達に片っ端から平気な顔で売り歩けばいいのだ。

なのにこのドラマの人たちはみんなまるで慢性便秘のようにこんなことで悩んでいる。別に、ひどい貧乏にさらされているわけでもないし、病気になっているわけでもない。両親も友達もいて、仕事も習い事をできる余裕もあって、幸せそのものではないか。それがどうして、「崖っぷちなんです私たち」みたいな辛気くさいドラマに仕上がっているのか、理解に苦しむ。

最近テレビで見たが、子犬の大事な時期を室内で過保護に育てられた犬というのは、微妙な変化によるストレスにも耐えられないひ弱な犬になってしまうのだそうだ。「彼女たちの時代」に出てくる人たちは、みな室内で大事に育てられた血統書付きの犬に見えて仕方ない。もう少しシリアスな不幸に見舞われた方が、今の幸福を実感できていいのではないか。

もし私が「彼女たちの時代」の深津絵里の立場になんかなれたら、そりゃもう幸せで幸せで、神様ありがとう!ってなもんである。貯金があって実家に住めて一人暮らしじゃないだけでも、お金があって嬉しい。家族の誰もガンになって死んだり死ぬような怪我をしたりしてないだけでも嬉しいし、家族内で嫁姑の争いがないだけでも、非常に嬉しい。ダイエットの心配のない体で健康なのも嬉しい。幸せづくしだ。

椎名桔平なんか自殺しそうなくらい辛気くさい顔をしているが、この不況の時代を生きていれば一度は似たような問題にぶつかるだろう。そこで「私は最低の人間です」とかって不幸を気取ってみても、もうちょっと明るく胸を張って生きていくことができるだろう。辛いのは職場と自分のプライドだけだ。自分は健康体でまだまだ若いし、奥さんは優しくて美人だし、住まいもあるし、インテリアの照明を買いに行く余裕があるじゃないか。休みの日に体でも鍛えて、美人の奥さんに子供でも作って笑って暮らせばいいのに、アホじゃないかこいつ。

最近室内犬のようにひ弱な私でさえ、見ていて腹立たしくなるほどひ弱な人たちのドラマなのである。何なのかなあ、このドラマ。甘すぎるし、弱すぎる。これが名作と称される理由がわからない。こんなのより、今放送している「3年B組金八先生」の方がよっぽど不幸な人たち満載だ。金八先生の息子は白血病だし、生徒の1人は性同一性障害で自分というもののあり方そのものに苦しみ、生徒の1人は親が自殺未遂。不幸を気取るならこのくらいはやってもらいたい。

でも、最も閉塞感を感じる不幸っていうのはたぶん、ゆるい悪夢のようなものなのかもしれない。ナイフを刺される痛さではなく、指に刺さったとげがずっと抜けずにずきずきと痛むような、繰り返し繰り返し口内炎になるような痛さ。人生はこういうゆるい痛みの連続。それをこともなくいなしながらしなやかに生きていける才能がつまり、「生きる力」っていうやつなんだろうな。

「彼女たちの時代」の登場人物を見ていると、無い物にばかり目を向けて、今ある物の貴重さに全く目を向けていない。それでお先真っ暗になって、背中を丸めて、ちまちましたことばかりやっている。

私もそうかもしれない。私だって、無い物はたくさんあるけれど、でも人にない物もたくさん持っている。毎日精一杯、あるだけの幸せをかみしめたら、どんどん明るく生きられるんじゃなかろうか。部屋でヒヤシンスは咲いてるし、腹が痛くてもそれを治してくれるお医者はいるし、あったかい部屋でテレビを見てお菓子を食べていられるし、友達からメールも来るし、不眠症でもなくぐっすり眠れる。…とまあ、こんな調子で。

02/1/23(水) am 雪に埋まった町で
私の両親は、毎年雪の心配ばかりしている。好きで山形の豪雪地帯を住まいに選んだくせに、ここ数年特にひどい。

私の故郷の町は、冬はひどい雪で、街路樹の半分が真っ白な雪にうずまる。道路は白いシャーベットで綺麗にコーティングされたアイス・ケーキのように、真っ白のつるつる。車道脇にはピークの2月なら常時1メートル以上の雪の壁がそびえる。地吹雪なんて見慣れて特に珍しいとも思わない。

除雪しても除雪しても、毎日毎日湿った重たい雪が降り積もる。車で通勤するなら、雪のせいで普段より2割は幅の狭くなった道路を、吹雪く中、毎日職場に通う。

ど田舎で豪雪地帯。自動車で行くパチンコ屋。当然近所にはない、だだっ広いだけのショッピングセンター。ぼろぼろで薄汚く、何故か食料品までディスカウントしているホームセンター。

住宅街ではなく、田んぼのど真ん中になぜかぽつんとたつコンビニエンス・ストア。時計と貴金属を同時に売り、邦楽チャートの1〜6位までのCDくらいしか満足に仕入れないレコード店。置いてある鉢花がいつもしおれているスーパー。紙幣が入る大きさの茶封筒を探すのにも難渋する文房具店。マンガだけがやたら新しい本屋。

……これが、私の故郷にある娯楽の全てだ。山形県は、どこも似たようなものかもしれない。「カフェ」という言葉を知っている人がどれだけいるだろう。話題の映画のポスターを街角に貼っても、泥まみれの雪ですぐにべろべろになる。図書館は子供の遊び場、そうでなければ勉強を名目とした中高生の社交場。アーティストが山形にツアーに来る時には、たいてい旬を過ぎている。人気のあるフレグランスは、いまだにヤンキーの間の「ウルトラマリン」。

つまり言葉を尽くしても尽くしきれないくらい、娯楽や文化に乏しいのだ。教育や文化のリーダーを気取る役人たちさえ、CDも買わなければビデオのレンタルすらしない。恥を忍んで一例を挙げよう。感性教育に興味のある私の父が最近ディスカウントで買ったDVDは、「007」。情けなさすぎて涙も出ない。

こんな場所だ。雪で全てが埋もれ、雪と人々の無知が文化の浸透をこの上なく遅らせる土地。視線が外に向かず、大人の間にも子供の間にも恐ろしい閉塞感が漂うこんな町では、自分を持て余した人々は文化的なものではなくひたすら「性」と「食」に向かう。

山形には不名誉な事件が多い。人々の無知や精神の乏しさが原因の、残酷で恥ずかしい事件がよく起こる。マット圧死事件。教師の買春。学校のコンピュータ端末から、女子中学生がインターネットを使っての売春行為。学生が不足して大量に中国からの留学生を入れたはいいが、チェックが甘くて日本での就労の踏み台にされてしまった短期大学。

最近は、山形出身の国会議員の秘書の不祥事もあった。山形県内の企業が多くの金をその秘書に払っていたらしい。分別があったら、そんなものにみんな群がって金を払ったりしないだろうに。怜悧な男の甘い言葉にだまされて、山形弁の中年のおじさんたちが血眼になって金をかき集めている様子が目に浮かぶ。

同じ山形に生まれた者として心から恥ずかしく思う。全ては無知と、精神の貧しさ、文化の乏しさから生まれた出来事たちだ。下手に若い者たちよりも、畑に汗するお年寄り達の方が、社会的な知識は乏しくても本質的にはよっぽど高貴な精神を持っていることがある。一昨年亡くなった私の祖父のように。

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去年の末、山形に帰省した時、私は両親から両親の知り合いの様々な不祥事を耳にした。ある警察官は、財産のたくさんある旧家の娘と結婚していながら、赴任先で知り合った婦人警官と不倫し、ラブホテルから出てくるところを妻に見つかった。

ある中年の男性教師は、単身赴任により離れて暮らす妻にストーカー的な偏執を見せ、それではまだ足りず、現在夫を持っていない生徒の母親にしつこく誘いの電話をかけた。断られると、今度はその母親と部活動の慰労会で飲み会を行った教師たちの1人に嫉妬の矛先を向け、その騒動に巻き込まれた若い教諭(私の高校時代の同級生)が父の元に相談にやってきた。大晦日のことである。

どうしてそんなものにばかり、興味を向けるのだろう。それはつまり、他に何も暇つぶしがないからだ。

幸い色に走らなかった人々は、毎日うまい物を食べることに血道をあげる。私の両親や祖母はそうだ。異常なまでに食べ物にこだわる。あれを食べたくない、これを食べたい、と言い続けることで、娯楽の乏しい土地での生活を乗り切るかのようだ。毎日刺身やステーキを食べ、高い果物を箱で買い、ムダなお金を浪費している。

実家に帰省するといつも、私はこの土地が持つ独特の閉塞感に襲われて息が詰まる。寝起きのような格好で買い物をする人々の姿を見ると全くうんざりする。毎年毎年、私はもうこの土地に住めないということを確認していく。

人々にもう少し知恵があったら、「性」や「食」のみでない豊かな暮らしが、山形でも十分できると思う。簡単に持ち家が持てるんだから、ケーブルテレビでブロードバンドの回線を持って、インターネット環境を整えればネットで様々な情報を仕入れることができる。辻仁成の小説に出てくるようなお上品なフレグランスを買うことだってできるし、マンガ以外の本も少しマニアックなCDも探しあてられる。

でも一体この土地でどのくらいの人が、そういう知恵を持っているだろう。「性」や「食」といった、手に触れ口に入る物理的な快さのみを追い求める大人達に子供達も押しつぶされる。不況のあおりで金がなくなった両親によって繰り返される家庭不和に疲れ果てた子供は、学校のネット回線を使って売春する。無知な大人達は、それに過敏に反応して学校でのインターネット使用を禁止する。それは、根本的な解決にはなっていないのに。

車で田んぼのど真ん中の道を走っている時、遠くの山の麓まで果てしなく続いている田のあぜに、青白い光を放ちながらひっそり並んでいるアダルト雑誌の自動販売機を車窓から見ることがある。ジュースの自販機すら無い場所でアダルト雑誌の自販機。胸がとても痛くなる。

電車で山形に帰れば、仙山線の車内に「やまがた休暇」というJRのポスターを見かける。田舎で休んで魂の浄化をはかる旅行を勧めるポスターだ。だが、故郷の実情を目にする私に言わせてもらえれば、田舎が全てを受け止めてくれる優しい土地だと思ったら大間違いである。そこには、「おおらかさ」という名の無知と悲惨が渦を巻いている。いい人たちももちろんたくさんいるけれど、そういう人たちに出会うためには、手間と時間がかかるのだ。

私の故郷のような閉じた土地で文化や教育に関わる人間は、都会でそういった職業を選ぶ人たちより何倍も高い志を持って取り組んでほしい。そういう風土が少しでも良くなるためには、何より人々が知恵を持つことしかあり得ず、それを担う重要な役割を彼らが果たさねばならないからだ。

それだけではない。高い志を持たなければ、すぐに風土の醜悪な部分に彼ら自身が足をすくわれ絡め取られる。そう、生徒の母にしつこくつきまとう例の中年教師のように、しまいには始めに何をしようとしていたのかすら忘れ去って、「性」や「食」を追い求めるだけになり果ててしまうだろうから。

私にはその勇気はないから、故郷に帰るつもりはない。今もし故郷での就職を選んでいたら、1ヶ月も経たないうちに汨羅江のほとりを彷徨う屈原のような気持ちになりそうだ。

今後、悪あがきとして父に「パッチ・アダムス」や「グリーンマイル」のビデオを鑑賞してもらうよう努力くらいはするだろうけど。

02/1/21(月) pm やっぱり涙
映画の「ストレイト・ストーリー」を見るといつも、私は亡くなった父方の祖父を思い出して涙が止まらなくなる。

頑固な年寄りというのは、その頑固さゆえに、時々普通では考えもつかないような馬鹿なことをやろうとするものなのかもしれない。

私が8つか9つの頃のある時、祖母と母がひどい喧嘩をして家中が険悪なムードに陥っていた。

祖母と母の喧嘩はいつものことだった。今考えれば祖母が極度のヒステリーで、プログラムに重大なバグのあるコンピュータのように性格に著しく問題があるので、圧倒的に祖母が悪い。しかしその当時の母の立場は非常に弱く、少し口答えしただけで祖母は食器を叩きつけるように洗い物をし始めたり、ひどい皮肉を言いながら部屋の戸を壊れんばかりに派手な音をたてて閉めたりと、子供じみた馬鹿げた行動を始める。

今だったら両者と血のつながりのある私が出ていって、祖母を叱り、からかって気を逸らせ、母を慰めて休ませ、家事なども多少手伝って両方のご機嫌をうまく取り結ぶことができるのだが、当時は何もできなかった。多少物事の分別がつくようになっていた私と妹は、不安で引き裂かれるような気持ちになるしかなかったし、弟は幼くて何もわからず、ただぽかんとしているばかりだった。

子供が不安に揺れているのに、女二人はゴジラとキングギドラのように争ったかと思えば、険悪なままにらみ合いを続け、口をきかない。朝食も夕食も嫌なムードで、私は家に帰りたくないと思うほどだった。

そんな日が数日続いた、ある晩のことである。祖父の姿が急に見えなくなった。普通なら畑から引き上げて家にいる時間なのに、帰ってこない。普段出かけるということのない祖父の姿が、家にも畑にも見えなくなってしまった。祖父はどこかへ姿を消したのである。

母が実家に帰るなら話はわかるが、祖父がいなくなったので私はとても焦った。どういうことか把握しかねた。日はとっぷりと暮れて、もう夜だ。祖父は一向に帰らない。父は驚いて、すぐに親しい近所の人に連絡を取り、一緒に捜しに行った。あちこちに電話連絡をして、車で走り回ったようだった。

祖父がどこかへ行くとしたら、徒歩か自転車しかありえない。もともと外に出たことの少ない人だから、バスや電車やタクシーを利用することになじみもないはずだ。何時間かして、祖父は国道沿いに歩いていったらしいという連絡を父がよこした。

山形のど田舎の国道なんて、自動車のためにしか存在しないようなもので、歩道などほとんどない。徒歩で行くための道ではないのだ。真っ暗な中、田んぼの真ん中を切って続いている国道の、無いに等しい歩道の白線の上をあてどなくふらふら歩く祖父の姿が浮かんで、とても不安になった。国道を通る車のヘッドライトに照らされた後ろ姿は、痴呆老人と思われても仕方ない。車にひかれないか心配だった。

祖父は、その国道の、家から15キロほど離れたところで見つかった。車に乗せられ、家に戻ってきた祖父に、私は何も言うことができなかった。家族みんなが驚いたと思う。その騒動をきっかけにして、母と祖母のその時の諍いはおさまった。それからも母と祖母の諍いはあったが、あそこまで深刻さを感じたことは後にも先にもあれきりだった。

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少し時間が経ったころ、あの時祖父が一体どこへ行こうとしていたのかを私は父にたずねた。

「うちの墓に行こうとしたらしい」と父は言った。確かに祖父がたどったのは、私たちが家族で墓参りに行く時のコースだった。いつも車で国道を北上し、我が家の墓のあるお寺に行くのだ。

何のために祖父がそんなところへ行こうとしたのか、その真意はよくわからない。だが家中が険悪で、思い詰めた祖父は自分の両親や姉が眠っている場所に行こうとしたのだろう。

その頃、母と祖母がよく諍いを起こしていたので、父は祖父と相談して、お互い自分の妻を何とかなだめる方向で丸くおさめていこう、という取り決めをしていたのだそうだ。祖父は何も言わないながら、父との約束を守るべく頑張ったのに違いない。愚にもつかない祖母の愚痴を聞き流しながら、耐えたのだろう。

だが、諍いは何度も何度も起こり、そのたび家の雰囲気は悪く、祖母なんて日々益々手がつけられない有様。年中顔をつきあわせていた祖父は、ぐちゃぐちゃと聞きたくない繰り言を並べられ、黙って耐えるのにほとほと疲れてしまったのだろう。だが、自分が大声を出したのでは、父との約束も果たせない。

1人で思い詰めた祖父は、墓に行って、眠っている親や姉たちの前で死ぬつもりだったのかもしれない、と私は思う。気持ちはよくわかる。だがそれにしても、徒歩というのがどうも暴挙で、私には理解できないのだが。

ただ、広くて真っ暗で、歩道のない国道を、後ろから車のヘッドライトを浴びながらひたすらに墓場へ歩いた祖父の行動は、一生懸命さというかけなげさがあって、思い出すと、滑稽なのになぜかとても切ない気持ちになるのである。

だから「ストレイト・ストーリー」を見ると、いつも祖父のその事件を思い出して、主人公のアルヴィンと祖父が重なり、泣けて泣けて止まらなくなってしまうのである。コーン畑の真ん中を通るだだっ広い道路を、時速数キロのトラクターで進むアルヴィンと、あの晩、田んぼの真ん中を通る暗い国道を徒歩で進んだ祖父と、国は違えどとても似たものを感じるのだ。

アルヴィンの病院嫌いを見れば、祖父も生前病院嫌いだったことが思い出され、アルヴィンがそっと出す古びた財布や、頭にかぶる年季の入った帽子も、祖父が持っていた黒い革の古い財布や、夏にかぶっていたひも付きの、古い大きな麦わら帽子に重なってくる。

そういうのを見て、私はもう目が流れるんじゃないかというくらい涙が止まらなくなってしまうのである。

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祖父は一生懸命家族を守ろうとし続けた。偏屈で、うまく世渡りするための対社会的な知識は乏しかったが、我が家で祖父を嫌いだと言う人は一人もいない。何も言わないで、いろんなことを受け止めてくれる強さがあった。

アルヴィンも持っている。人生の深くて暗い傷を、黙って胸に閉じこめている強さ。愛する人の死や、うまくいかなかったことや、老いの辛さを、じっと黙って胸に秘め、必要な時に経験から得た教訓を他人に分け与えてくれる。

そういうことをいろいろと思い出してしまって、やっぱり涙が止まらない。

02/1/19(土) pm 妙なエジプト夢
レンタルビデオ「エバー・アフター」を見た。ドリュー・バリモア物では「チャーリーズ・エンジェル」「25年目のキス」に続き3作目だが、やっとドリュー・バリモア物の共通点を発見した。それは、主人公がどれも女性で、異常な強さを発揮して自分の運命を切り開いていくというパターンがあるということだ。

「エバー・アフター」の場合、王子様は何もできない分別もないバカ男と言って差し支えない。そういえば「25年目のキス」で出てくる相手の男性も確か気が弱くて主人公に一度は背を向ける情けない系の人物だった。あっ、「チャーリーズ・エンジェル」でもドリューは悪い男にだまされて、ヘリが爆発する寸前キャメロン・ディアスが無理矢理止めに入るまで、容赦ないキックとパンチを雨あられとだました男に浴びせていたっけ。

そうかドリュー、あなたはつまり、私と同じような病に…たぶんそこが魅力で私は何本も見てるんだろう……ドリュー・バリモアには今後もたくさん映画を作って欲しい。見ると勇気が出てくるから。

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時々私はレンタルビデオの映画くらいにはおかしな夢を見るのだが、一昨日見た夢も変な夢だった。

夢の中には、褐色の肌の人々が暮らす国の王子と、そこに異邦人的に滞在している、こげ茶色の長い髪をした白人の美しい姫とが登場していた。

黄色い砂漠の国で、一面に砂の平原が広がっている。太陽が眩しく、風が吹くと砂粒が舞い上がる。そこは大きな石造りのプールサイドだった。プールの周りにもプールの中にも、大勢の人々がひしめいていた。みんなエキゾチックな民族衣装を着て、褐色の肌をしている。

白人の姫は肌が日に焼けるのを気にしながら、太陽の光を浴びつつプールサイドにいた。姫は王子のそばに行って、ふとプールの向こうに広がる遠景を眺める。褐色の肌をしたその国の王子は若く、姫と王子は親密な関係にあるようだった。とても平和でにぎやかな光景だ。プールの周りを囲う石の壁の向こうには、空と、並んでそびえるいくつものピラミッドが見えた。

私はというと、姫でも王子でもない。私は第三者として、その様子を見ている。時々姫の視点に入り込むが、そればかりではなく、抜け出して斜め上から見ている事もある。

その日はクリスマスだった。場面はプールから何か大きな建物の内部に移った。姫はクリスマスのミサに行こうとしていた。建物の中のある部屋でミサが行われている。子供達が集まって歌を歌ったりする会だ。

姫は前に、その会に参加するはずの子供が悲しそうにしているのを見た。聞いてみると、そのミサには参加している子供達の親が見に来ることになっているのだが、その子には親がいないので悲しく思っていたのだ。姫はその子の話を聞いて、自分が親としてミサを見に行ってあげると約束していた。

ところが、白人の姫がそのままミサに紛れ込んだのではばれてしまう。そこで姫は、顔中を黒く塗って、現地の人に変装してミサの会場に入っていく。ミサの会場はこぢんまりとしたところで、オルガンのようなものの伴奏に合わせて子供達は歌っていた。子供の方を見て、にっこり微笑む姫。

……というところで目が覚めた。妙な夢だったが、にぎやかないい夢の部類に入る。

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でもこの夢、やっぱり夢だけあって設定に無理がある。大体、ピラミッドがあるということはエジプトなのだが、夢では、遠くの方にずらっとピラミッドが並んで建っていた。建て売り住宅みたいに、あんなにたくさんピラミッドってあったんだろうか。

それと、エジプトでクリスマスをやる不自然さ。クリスマスを祝う習慣なんてエジプトにあるわけない。キリスト教自体、そんな風に流布したことがあるんだろうか。エジプトとキリスト教といえば、命からがらエジプトを逃げ出すモーゼの映画しか記憶にない。なのに、あのミサが弾圧されている様子もなかった。

最後に、エジプトといえば乾燥した気候のはず。それなのにどうしてプールがあるのか。夢の時代は、明らかに現代ではない。石造りのプールなのだ。いつかはわからないが、ピラミッドがすでにいくつも建造されていて、かつ、現代よりもはるかに昔の時代だ。

とにかく変な夢だった。世界史を勉強したことのある人に、そういう設定があり得るのかどうかを聞きたくなるほどの。誰か教えてください。

02/1/19(土) pm 恋に落ちた食人鬼
何日か前(1/13の日記の後半)に、世の中には関係構築不能な存在同士というのは確かにあって、それを超えて関係を構築しようとすれば死ぬか、あるいはマゾヒストになるしか道はないというようなことを書いた気がする。

それをもういいですというくらいリアルに描いた映画をレンタルビデオで見てしまった。つまり「ハンニバル」。

主演の二人は当然ながら天敵同士である。槇原敬之の「Hungry Spider」の世界だ。何しろ人を食う(字面そのままの意味で)ことが好きな奴と、人間という組み合わせなんだから。吸血鬼と人間よりなおひどい。いつ食われるかわからない相手から好意を寄せられ、自分も相手を助けるというのは非常に複雑で、前作「羊たちの沈黙」で二人の間に存在していたガラス越しの「礼儀」という距離を超えた関係が描かれる。

お互いに傷つけ合いながら関係を続ける人たちの物語を見ること自体は嫌いではないが、だんだん可哀想になってきて涙が止まらなくなるのがまずい。

映画館で見なくて良かった。これだけグロテスクなのに、一番グロテスクなシーンのあたりから嗚咽が止まらず、最後には感涙にむせびながら映画館から出てきたら周りの人に変な奴だと思われてしまうではないか。この映画を見ている間の反応としては、嗚咽よりむしろ嘔吐が止まらない人の方が正常な反応だろう。

確かにグロテスクなことはこの上ないし、人を食べるという事には嫌悪感と危険性を感じるものの、終盤になるにつれ食人鬼が哀れで、ラストシーンで涙が止まらない始末。自分を傷つける相手とまともに関係を作ろうとするっていうのはこういうことか、と実感させられる(いくら何でも、食人が趣味の人から好かれたくはないが…)。

食人鬼に復讐を企む富豪は、食人鬼と彼女が「美女と野獣」の関係ではなく、「ウサギとキツネ」の関係であると分析する。キツネはウサギの悲鳴を聞けば飛んでくるが、それはウサギを助けるためではない。キツネはウサギが苦しんでいるのを見るのが好きなのだ、と言う。この富豪の言葉は非常に説得力があって、報われない恋愛っていうのは大概そんなものだし、よくよく考えてみたときに惹かれ合う感情を恋愛と呼べないことがある。

結局のところ、意識的にしろそうでないにしろ、相手が自分に害をなすのが好きで、自分も相手に害をなそうとする方向性があるからこそ、傷つけ合う関係になってしまうのだ。食人鬼が、「ウサギの悲鳴を楽しむキツネ」だっていうのは理にかなった解釈だろう。

二者の関係が果たしてそういう質のものなのかどうか、それを考えるためにその後の展開が用意されている。でもやっぱり私が何日か前に書いたとおり、こういう関係を続けようとあくまでも考えるなら、死ぬかマゾヒストになるかどちらかしかないのかもしれない。

私は、関係継続のために頑張る人は嫌いではないが、如何せんこの作品の困ったところは、それを「Hungy Spider」のように美しいものというだけでは捉えられないところだ。ちゃんと「他の獲物」を食べるシーンがご丁寧に提示されると、一体どう考えていいやら……いや、そのシビアさが逆にいいのかな。傷つけ合う恋愛っていうのもそういうシビアなものだし。

「ハンニバル」は五つ星の「恋愛映画」だろう。グロテスクだがホラーではなく、ラブストーリーだ。少なくとも私は、「タイタニック」や「ノッティングヒルの恋人」を見た時より恋愛って何なのかよく考えた。恋ってホントに甘くない。

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一体自分に何があってこうなっているのか自分でもよくわからないが(これが一番問題)、どうもこの恋愛観は、このままでいいのか非常に疑問である。

02/1/18(金) pm 喜劇と痛い映画
最近、学校のつながりで打ち上げをやってくれることがぼちぼちある。

それに出るたび、たぶんそのメンバーで集まるのは最後だろうと思うと、何となくさびしい感じがおそってくる。7年もいちゃったのだから、多少さびしいのは当たり前である。

7年! それは確かに、重いな…(あらためて自覚)

でも小学校の頃に比べれば、同じ年月もそれほど重たくない。1年の濃度が年ごとに薄くなっているんだろうか…(あったことを思い出してみる)…そうでもないか。

子供の頃に比べて、直面させられた問題のひとつひとつが重たかったように思うから、これはこれなりに重たい年月だったらしい。過去の傷をひきずってはいけないとは思うものの、心身共に満身創痍。同じ場所にいれば必ず思い出す。これ以上はもう…だから出なければいけない。

7年間、同じ舞台で繰り広げられた喜劇のようだ。でもどんな人もみんなそういうものだろうと思うけど。同じ場所に居る人や居続ける人たちには、ある一面以上を話せない程度には喜劇。

学校に行かなくて済むようになったら、気の合う後輩にでも全部話して厄払いにしようかとも思うが、そんな重たいものを持たせては可哀想だという気もする。でも反面教師にしてもらうために、話した方がよいのかもという気もする(一体どっちなんだ)。

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この間、ドリュー・バリモアの「25年目のキス」をレンタルビデオで見た。

見ている間ずっと、体中にヘヴィなパンチを雨あられと受けているようなリアルな痛みを感じた。見なかったらレンタル代がもったいないので目を背けることもできず、あまりの痛みに耐えかねて、途中思わず早送りしてしまったほどである。

あれほどひどくはないにしても、私も基本線は全く同じだ。危ないよ……危うく私も新聞社に就職するところだった……

でもよく考えたら、高校生の時代を「ビバリーヒルズ高校白書」のように華々しく送れる人がどれほどいるだろう。あんな、コンプレックスも悩みも特にない、順風満帆で遊び放題の高校生活なんてほとんどの人は無理なのだ。

侮蔑や疎外感に苦しみながらも理想を夢に描き、それを粉々に砕かれ踏みつけにされながら過ごす痛い日々。さらに数年後、そんな忌まわしい日々のリベンジを余儀なくされてしまい、新たな痛みを味わい尽くす。そういうことを正面から描ききったドリュー・バリモアってすごいよなと思う。私にはとてもできない。

全く苦労のない「ビバリーヒルズ高校白書」よりは、どれだけ痛かろうとも、泥の中から息も絶え絶えに這い上がるような「25年目のキス」の方がずっといい、と思ったりして。

ただこの映画、主人公の痛みを「我が事」として感じるかどうかで印象は大きく違うらしい。私はもう「痛い痛い! ごめんなさい、ごめんなさい!」の連続で、「痛かった映画」という印象が拭えないのだが、友人の1人は「いい映画」とのことで、私よりはやや痛みが緩かったらしい。うーむそれはたぶん、幸福な高校時代を過ごしたということなんだろうな。

ということでこれは、「あなたが幸福な高校生だったかどうかを見分けるための映画」、おすすめです(パッケージの裏のあらすじ解説で「ギクッ」とした人はやめといたほうが無難)。

02/1/17(木) am 『バトル源氏物語』
昨日の日記で映画「里見八犬伝」のことを書いていて思ったのだが、私はもしかしてアクションが大好きなんだろうか?

よくよく考えてみると、私は強い女性が好きなのだ。「チャーリーズ・エンジェル」でルーシー・リューの回し跳び蹴りやドリュー・バリモアのパンチなどにすっかりハートをわしづかみされていることから考えても、どうも美しく清く正しい女の人が戦っていて、しかもその人達が滅法強い話が大好きらしい。

でも最近、そんな話は滅多にない。惹かれ合う人たちがお互いに心を傷つけ合うドラマはあっても、惹かれ合う人たちが肉弾戦でお互いに物理的な傷を付け合う話なんてあまり見ない。

最近見たのでは水野美紀がウッチャン相手に殴る蹴るをやっているドラマがあったが、ストーリーも設定もめちゃくちゃでどうも共感できなかった。水野美紀のアクションは素晴らしかったので、ぜひポスト志保美悦子、第二の犬坂毛野として、是非剣劇を覚えていただいて花吹雪の中生首を持って飛び去って欲しい。その場合、萩原流行の役は爬虫類系の気持ち悪さと白皙の美青年との両方を兼ね備えたポスト萩原にやっていただけますよう……及川光博とか…(ハマりすぎて気持ち悪い)。

よく考えたら、うだうだしたラブシーンの代わりに同じ人物同士で肉弾戦のバトルがあれば私は別に恋愛ものでもいいのかもしれない。いやむしろ、恋愛ものがそうすりかわるのだとしたら恋愛がたくさん出てくれば出てくるほどいいのかもしれない。

誰かが恋愛小説の恋愛要素を全てアクションにすり替えた脚本を書き、それを映画にしてもらえれば文句ない。そうすると、最も理想的な元ネタは……恋愛盛りだくさん、日本が世界に誇れる、世界初の長編小説……そう、『源氏物語』あたりがよろしかろう。

『源氏』は『源氏』でもラブシーンや恋愛沙汰が全てアクションで代用されている、『バトル源氏物語』である。良質のアクションで見所てんこ盛り、十二単が繰り出す跳び蹴りの嵐。

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どの帝の御世であったか、女は強い男を求め、自らを鋼の如く鍛え上げた時代があった。男達は一夫多妻を許されたが、その代価としてもはや男達を超える強さを手に入れた女達を倒さなければ、女を手に入れることはできなくなっていた。

高貴な娘ほど強いのがこの時代のならい。美しくやんごとなき姫君を手に入れる男は、誰よりも強くなければならない。

ここに1人の男がいる。名前は光源氏。その名の如く輝くばかりの華麗な闘いを繰り広げる強い男として名高い。しかし、それをも凌ぐ高貴な姫君たちの圧倒的な強さの前で、彼は一体どんな戦績を得るのか。

この物語は、厳しい時代にガールハンターを気取ろうとした男の、壮絶決死バトル・ロワイヤルの記録である……。

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書き出しはこんなもんでいいか。光源氏は「輝くばかりの筋肉」の持ち主にしてやろうかとも思ったがあまりにも気持ち悪いのでやめておこう。名前を筋肉の形容に読み替えてしまうと匂宮とかの設定には目も当てられない事態が起こってしまう。

しかしながら、どうして光源氏が戦い続けなければいけないのか、その動機づけが今ひとつなのである。あんまり書きたくないけど源氏は究極のマゾヒストで、より強い女の拳を受けたいが為に女性遍歴(バトル)を続けるという設定でもよいのかもしれない。

いや、幼児体験に根拠を求めても良いかも知れない。母親・桐壷更衣が桐壷帝とのバトルの果てに亡くなってしまい、そのことに衝撃を受けた源氏は、ちょっとやそっとじゃ死なない、誰より強い女性でなければ絶対に妻にしたくないという強迫観念に駆られて女性遍歴(バトル)を重ねてしまうとか…(こっちのほうが面白い)。

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やはり物語最大のみどころは何と言っても、源氏がわらわやみをおして闘う北山での幼い若紫との死闘だろう。この若紫、さすが猛女・藤壷女御の血につながる者だけあって幼くして素晴らしい素質を秘め、病身の源氏くらいなら物ともしないほどの強さ、スーパーチャイルド。

源氏はたまたま、若紫が祖母である尼君から庭先で武道の稽古を受けているところを垣間見てしまう。飛ぶ鳥を追ってジャンプ力を鍛え、最後には素早い鳥を自らの拳で落とすことにより動体視力と拳のさばき方を修行するものだ。鳥の反撃にあって目の下がこすれ、赤くなってはいたが、若紫の鋭い拳、素早い動き、飛べば屋根をも越える身軽さ……ただ者ではない。

「……ひらめいた」

もうそろそろ、完成された強さを持った女達に勝つことに限界を感じていた源氏。こんなわらわやみもひとえに、猛女・藤壷女御を手に入れるためにハードなバトルを13歳から繰り広げてきたしわ寄せである。

(始めから完成された強い姫君に勝つことが無理なら、弱いうちに勝って予約しておいてから、すっげー強くして改めて自分の妻ってことにすればいいじゃんか。)

……今頃気づいたか。

気だるい熱を感じながらも源氏は思わず少女に闘いを申し込む。白い衣に山吹の衣を重ねた少女は豊かな髪を揺らして振り返り、尼君の制止を聞かずにそれに応じる。果たして彼女は山吹の衣をひるがえしてどんなキックを源氏にお見舞いするのか…乞うご期待。

たぶんこれで勝っても若紫が成長して改めて結婚を賭けたバトルを挑んだ夜などは、源氏は足の一本や二本では済まないような凄絶な闘いを余儀なくされるのは間違いない。ご愁傷様。

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さしずめ、柏木衛門督なんていうのは女三宮との激しいバトルの果てに泡のように死んでいくということになろうか。闇討ちにしようとして返り討ちにあってばかりの悲しい宿命である。皇統の女は最強の武闘家ぞろい、さらに自分より強い男の妻になっている女はその分強い。そんな相手と闘うのは痛手も大きいというわけだ。それはまさに、父の後妻である猛女・藤壷に闘いを挑んだ若き日の光源氏に重なる姿……。

このほか、「バトル源氏」には多くの魅力的な闘いが展開。

宮中花の宴での、朧月夜との華麗で情熱的なパワーバトル……花吹雪の中、扇を用いて応戦する派手系美女の正体やいかに。後日、扇を取り返しにやってきた彼女との再戦や、源氏の帯を引っ張り転がしながら繰り広げられる雷の日の闘いなどは、朧月夜の父親まで参戦して大変なことに…!

嵯峨野野の宮では、自らの分身を物怪として補助に用いる六条御息所との幻想的な魔術バトルの最終決戦が行われる。果たして源氏は、伊勢への逃走を画策した御息所を引き留めて倒すことができるのか? いくつもの分身を作り出して源氏をかく乱する御息所。榊の小枝を魔除けにしながら苦戦する光源氏。

「くそ……卑怯な!」
「ほほほ……恐ろしいか……恐ろしければ本当の私を見つけてごらん…」

もちろん、女同士の闘いだってある。特筆すべきは、葵祭で牛車から牛車を飛び移りながら繰り広げられる葵の上と六条御息所の闘い…別名「車争い」。身重のくせに身軽すぎる葵の上、さすが光源氏の正妻という身分を得た女の強さは半端ではない。御息所は周囲のヤジによる怒りと恥辱に燃え、物怪攻撃。

紫の上と明石の君の、昔年の鬱積に決着をつける闘いでは、年季の入った闘士同士ならではの見事なバトル。拳を交わしてお互いがお互いの戦闘様式の個性をリスペクトしあってめでたく争いは収まる。

サイドストーリーだって見逃せない。源氏の息子・夕霧と頭中将の娘・雲居の雁との約束されたバトルは、7年の歳月を経て藤花舞い落ちる中厳粛に行われる。

まさにバトル三昧、垂涎モノのアクション映画に早変わりである。

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『源氏物語』の純粋なファンの方、ごめんなさい。でも私は満足です。今夜は小さい若紫のワイヤーアクションによる空中回転カカト落としをくらって、鼻血を出している光源氏の身の上を憐れみながらゆっくり就寝します。

02/1/16(水) am 私のソウル・ムービー
レンタルビデオを返したついでに、また借りてきてしまった。今度は3本だが、そのうちの1本は私の魂に刻み込まれて果ては道を踏み誤らせたソウル・ムービー「里見八犬伝」である。

初めてこれを見たのはテレビで、私は確か小学校2、3年生。夜中にじーちゃんが部屋を真っ暗にして何故かこっそり見てたので、私もそのころじーちゃんの隣のふとんに寝ていたからそのままこっそり見てじーちゃん以上にはまった思い出の作品。

これがもう何て言うか……!!!!!(涙なしに語れない)

これがなければ私は今頃貧乏学生などではなく、濡れ手で粟の大金を稼げるバブリーな職業になっていたに違いない。いや、少なくとも親に大学院2年分の学費という無駄金を使わせずに済んだに違いない。それほどとんでもない名作。

皆さんは、真田広之がやけた腕で鎌を振りまわし、綱にぶら下がって「ひゃっほう!」と木から木へ飛び移るような、超肉体派の野性的アクション俳優だったってご存じだろうか。そう、ウイスキー「膳」のCMで「だからおうちに帰ろう!」と軽やかに飛んでいるのは元々の彼の持ち味なのだ。千葉真一に鍛えられたアクションはどんどん出すべきだ。

この映画は何といっても良くできたストーリーと、素晴らしいアクションが特徴の……ああもう言葉にならない。ノックアウト、降参、白旗……本当に好きなものは理屈では語り尽くせない。

いや、でもあえて語ろう。夏木マリはやっぱり妖艶な悪役がぴったりはまるのだと。現在「千と千尋の神隠し」では湯婆婆や銭婆といった魔女の声優をやった彼女だが、「里見八犬伝」ではトップの悪役、悪の女王、妖婦・玉梓。

オールヌードの血の池水浴シーンには、幼心に鼻血が出そうだった(今見ても鼻血が出そうだった)。夏木マリ!あんたすごいよ。やっぱり私が「千と千尋」を2回も見に行ってしまったのはあなたが魔女役で、一番の敵役だったからかも知れない…まさかあなたがサングラスをかけて鳥に変身してぐるぐる飛び回るなんて、あの頃は思いもしなかったけど…。

ちなみに伏姫の声は松坂慶子。ああ、あなたが2000年になり、「さくや妖怪伝」で土蜘蛛の女王としてどかんがすんとジオラマを壊しまくるなどということは、あの時は思いもしなかった…悪役になってもノーブルなのはこのイメージがあったからなのか…ううーむ。

「里見八犬伝」ではまだ京本政樹も若くて、今のような色物ではなかった。きちっと美青年役をやってちゃんとはまってたんだから…って言ってもきっと誰も信じてくれないだろうけど、でも本当なのだ。本当に彼が「里見八犬伝」中でも一番の色男・犬塚信乃役で私は全く文句がない。ついでに浜路役の岡田奈々にももうやられっぱなしで、毒が回っても本望である。

何と言っても千葉真一を抜きには語れない。千葉真一はすごい。この渋さとアクションは確かに野際陽子も一撃必殺のはずだ。この人以外が演じる道節は、私にはあり得ない。別に「身の内から体が崩れる不治の病」だの「金碗八郎の孫」などという無茶苦茶な設定でも千葉真一なら構わない。何でもいい。今すぐ是非結婚して下さい。

寺田農だって現在の昼ドラ「レッド」(去年末放送終了、フジテレビ系)の冷徹父親役につながるものを思わせるようなニヒルなピストル使い。そうだよ、やっぱり時代劇ではピストルこそが泣く子も黙る武器の中の武器だよね。昭和50年代、大川橋蔵の「銭形平次」とか里見浩太朗の「長七郎江戸日記」みたいなトラディショナルな時代劇じゃ大概悪役商人の出す最終兵器が金に飽かしたピストルだったもの! 時代劇の人物がまるでバズーカ砲のような重火器を扱ったりする(例・「さくや妖怪伝」)のはルール違反だよね。

だけど私がやっぱり好きなのは、私の映画体験史上最も私に感銘を与えハートをがっちりわしづかみして放さない、志保美悦子の犬坂毛野……ああもう涙が止まらない。あの端正なビジュアルでウルトラアクション。花吹雪に剣で火花を散らし、血の滴る生首を持って飛び去る美しさ。蛇に巻き付かれてもなお相打ち、ストーカー萩原流行に半分心を持っていかれてるのにきっちり相打ち、衣を切り裂かれ肌も露わに死んでいく。

萩原流行の気持ち悪さも妖しい魅力。今も昔も爬虫類系なのね、萩原流行。あんたのせいで私は京都・下鴨神社の源氏物語縁結びおみくじで「柏木」を出すような(いまだに衝撃)、「千と千尋」を見終わった後「カオナシっていいよね」などと口走るような、そんな人間になってしまったのだ。この責任をどう取ってくれる。

でも何て潔いやり口。好きになったら正面突破、愛は惜しみなく奪うってわけだね。壁画まで描いちゃったバカさ加減、「お前は私のために生まれてきたのだ!」なんてのうのうと言ってしまうとは、さすが究極ストーカーの先駆け。

現在の最先端ゆくストーカーにだって、自分の言葉で相手に催眠まがいの暗示をかけ、こんなクリムト風壁画を壁に描いちゃう真似までやったバカはいない。写真は撮っても壁画は描かない、拉致監禁はしてもまさかそこまでは…「ストーカー 逃げきれぬ愛」(読売テレビ系ドラマ、高岡早紀主演)の強烈ストーカー役・渡部篤郎(ハマり役にてただならぬ怖さ。ちなみに主題歌は坂本龍一作曲、ここから中谷美紀との縁が始まっている…)をも完全に超えている。やっぱりバカにしか恋はできないというこの真実。一目惚れでどこまでもつっ走れ!!

……まあもちろん、『八犬伝』っていうのは元はそんな筋書きではないのだが、しかし鎌田敏夫が手を加えたってここまで面白くなるのは原作の設定があってこそなのだ。よくまあ、いかがわしいものを書けば手鎖になっちゃった時代にこんなイロモノを…(だからイロモノではない。原作はしっかり勧善懲悪、作者は男女関係にひどく潔癖な人間だったので善人の自由恋愛はない…だけど作品が出て時間が経ったら作品の登場人物を用いた春画が出る始末。当時の人も設定のおいしさを感じていたのだろう。ファンは怖し)

映画の元となったのは鎌田敏夫の小説だが、彼の改作の腕前は天才だ。さすがプロのストーリーテラーは違う。当時の学会で一大旋風を巻き起こしていた学説のいくつかもきっちり取り込んで映画脚本を作っている。これで、ポルノでさえなかったら……(鎌田敏夫の小説「新・里見八犬伝」は表紙からしてポルノの入り口。R-18です。行きがかり上、私は17歳で読んだけど)

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この勢いは……7泊8日のレンタル期間中、毎日1回見そうだ。それにしても全てのきっかけは「じーちゃんが見てたから」だったというのが笑える。

じーちゃんは年寄りのくせにイロモノが好きだった。一番好きな時代劇が「眠狂四郎」で、「魔界転生」も「あなたの知らない世界」も見ていた。じーちゃんだってまさか、自分のせいで孫がこんなになるとは思わなかったろう。

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そういえば、主演の薬師丸ひろ子のことを書かなかった気がするが、まあいいか。印象が一番薄いんだからしょうがない。

02/1/13(日) pm ボウリングに宿命
(前回の日記には多くの反響をいただきありがとうございました。やっぱり恋のバイブルよりはドクダミの花の方が惹かれますし、ベルサイユのバラよりはマリネラのバラの方が好きですよね。でも、私と同じく「名推理」をしたという人はいませんでした。やっぱりそんな問題にひっかかりを感じて思考をめぐらしたなんていうのは私(6)だけなのか…?)

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昨日は付き合いの長い友達と飲んで、その後ボウリングに行った。私にとっては、人生で2回目。

人付き合いにスポーツがからむと、私にとってはこの上ないプレッシャーがかかり、想像以上のストレスになってしまう。そのため普段はまずやらないのだが、付き合いの長い気心の知れた友達と一緒だと、苦手なスポーツがらみの飲み会もとても楽しかった。

ところが、波の激しさが特徴の私の宿命とはボウリングにまでつきまとうもので、ストライクを出したかと思えば次の回は2連続ガーター、などという意味不明な事が起こり、結局1ゲームで2連続ガーターとストライクを2回ずつ、という訳のわからないゲーム展開になってしまった。

1度目のときはそんなことはなかったはずなのだが、と私は思った。確かあれは嫌だったにもかかわらず避けられなくて、しかも人からアドバイスされながらという極限の精神状態でやったのだ。私は本当に追いつめられた。

私は崖っぷちの端っこまで追いつめられ、足下から転がって下に落ちる小石の音を聞いているような状況下で一生懸命ボールを転がした。とにかく自分の持てる集中力の全てを費やしてやった。そのせいで、この波の激しさは隠れていたらしい。それが、気心の知れた友達と一緒だったせいで今回は持って生まれた自然な「激しい波」がそのまま出てきたのだろう。

ということは、前回は「火事場の馬鹿力」でやっていたのだ。そう、あれはまさに、梁が燃え落ち、焼けた瓦の破片をばらばらと髪に受けながらも座敷に駆け込み、焦げてぼろぼろの着物の袖をまくり上げ乱れた髪の先が燃える嫌な匂いを感じながら必死でタンスを持ち上げる時のような決死の状況。我ながらあの時の自分に涙がこぼれてくる。えらかったね……えらかったよ…そりゃあ、胃も壊すよ、痩せもするよ。

たかが、ボウリングなのに……

でもみなさんもありませんか、人付き合いをするのにこういう難儀をしたことが。あの頃の私は若かった。それに耐えてまで人間関係を作りたいという執念がまだあったのだから。

でも、彼女との関係を続けたいがために、女性下着恐怖症の男性が彼女に頼まれランジェリー満載の下着屋に一緒に入り下着選びに付き合おうと努力してトリンプの売り場でぶっ倒れたりすることや、吸血鬼に恋してしまったがために自分の血が無くなろうとも必死で首筋を咬ませ続けて気が遠くなることなどは、やめておいた方がいい。

結局、あなたと相手は合わないのだ。どんなに愛していようともそれは無理だから。自分の嫌いなものを強いる相手との人間関係は所詮続かない。続けようとすれば、それはあなたが「マゾヒストになる」という究極の突破口を決死の思いで開くしかないのだ…(恋人に咬みつかれ過ぎて失血死寸前にやっとわずかに見えてくる、西方浄土のすぐ横にある暗い細道…)

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って、何書いてるんだろう。

とりあえず2回目のボウリングはとても楽しかった。普段生ぬるい生活を送っているせいですっかりふぬけになった体に久しぶりに闘志がわいた。この野郎と思いながらボールをほうっていたので今日は腕の付け根が痛い。右腕が全体的に筋肉痛。

やっぱりもう私には、戦うだけの体力は残されていない。

未だ、25歳にして……

02/1/12(土) am マンガの古本
(前回の日記で、去年の日記の日付が全部2000年だったことに読者のみなさんはみんな気づいていたに違いないと思ったんですが、どうも違うようです。メールをお寄せ下さった人はみなさん、気づいていなかったそうで…その方がむしろありがたいです。私を恥から救ってくださってありがとうございます。)

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整体の帰りに古本屋を見たら、「パタリロ!」の古いコミックス数巻と「お父さんは心配症」の1巻があったので、考える間もなく買ってきてしまった。

「パタリロ!」は、知的でスピーディな展開と卓抜したストーリーを作る作者のセンス、レトロで矢継ぎ早なギャグが面白くてついつい読んでしまう。

今時、「東山三十六方草木も眠る丑三つ時、どこで鳴るのか夜陰の鐘が陰にこもってものすごく…」などというのをギャグの枕に持ってくるマンガなんてこれ以外はほかにない。

もし、「ベルサイユのばら」か、「パタリロ!」かどちらかひとつ選べと言われたら間違いなく「パタリロ!」を選ぶ。どうせ画面にバラが出てくるのに違いはないんだから(たぶんこれは問題発言)、それならパタリロの方がよっぽど面白い。

たぶん私は、幼い頃からすでに「パタリロ」好きだった。私が小さい頃に「パタリロ」がアニメ化されていたのだ。記録によれば、私が幼稚園の年長組の頃だったらしい。

パタリロに出会った頃の私は6歳。毎日、ご飯の入った「魔法少女ララベル」柄のアルミの弁当箱と、黄色いカバーの「れんらくちょう」を入れた幼稚園バッグを肩から下げ、夏の頃には何の因果か「まいっちんぐマチコ先生」のマチコ先生がスカートをめくられている絵(はっきり覚えているが、間違いなくパンチラだった)が大きく描かれたビニールの水泳バッグ(これを妹にもおそろいで平然と持たせていたうちの母は相当問題…でも教員)を持って、車酔いでふらふらになりながら幼稚園バスで幼稚園に通っていた。私(6)のクラスは「はと2くみ」。

知っている方にはわかると思うが、「パタリロ」は小さい子供に見せるには設定にやや問題が残る(私は別にいいと思うんだけど一般のお母さんの中にはびっくり仰天する方もあろう。うちの母はびくともしなかった……が、教員)。

私の母は「パタリロ」が始まる時間になると「ほら、パタリロが始まるよ」と、私(6)に促していた記憶がある。私の母は自由な思想の持ち主だったに違いない(そう信じたい)。

母が私(6)に見るよう教えてくれたことがよく記憶に残っているのだが、ということは、私(6)がこのアニメをよほど好きで見忘れるとそのたび残念がっていたのだろうと思う。確かに私(6)はクックロビン音頭のオープニングや登場人物の派手さ、そして金髪のきれいな人(たぶん間違いなくマライヒ)が毎回決まって「バン…」と気だるげに登場するのを見るのが大好きだったような気がする。

でもこんなパタリロ大好きの私(6)にも、「パタリロ」を見た当初から不思議に思っていることがあった。それは、

(どうしてこの金髪の女の子(注・マライヒのこと)は、女の子なのに「ぼく」って言うんだろう?)

子供の私(6)には、バンコランの天然アイシャドウとか、オープニングのクックロビン音頭の変なフリつけや不条理な歌詞などはごく自然に受け入れられたらしい(子供って恐ろしい)。しかしながら、マライヒの存在の不思議さだけは、どうにも引っかかったらしい(やっぱり、子供って恐ろしい)。

私(6)には、バンコランとマライヒが恋人らしいということは理解できた。そこから芋蔓式に考えて、バンコランは男だからマライヒは女の子のはずで、とするとマライヒが「ぼく」という一人称を使うのはおかしい、と思ったのである。

そこで、私(6)はひらめいた。

「そうか、この金髪の人は、女の子だけど「ぼく」って言うのがクセなんだ!」

どういうきっかけでそんなことをひらめいたのかは忘れたが、とにかく私(6)は当時「こりゃすごい名案を思いついちゃったな」と自画自賛だった。確かに現在の私(25)から見ても、こりゃすごい名案だ。ちゃんと回答の二つの可能性のうち、片方を突破口にして納得したんだから。えらいよ、私(6)。

ところが、私(6)は自分の判断だけでは不安だったので、一応母に確認してみたくなった。今日も金髪の人が、「バン…」と気だるげに登場し、「ぼくは…!」って怒る。うーむ、また「ぼく」だぞ。そこで私(6)は、母に聞いた。「ねえお母さん、どうしてこの金髪の人は、女の子なのに「ぼく」って言うの?」

母はどさくさに紛れて私の質問を無視した。そこで私(6)は自分が考えた名推理を母に披露して同意を求めた。

「あのね、この金髪の人は、女の子だけど「ぼく」って言うのがクセなんだよね?」

母は最後まで、はっきり答えてくれなかった。そのため不完全燃焼な私(6)だったが、それでも自分の推理で何とかこの疑問を終いにしたのである。

そう、私(6)は無邪気だった。可能性のある二つの回答のうちもう片方は、思いつきもしなかった……まさかあのきれいな、金髪の長い髪のひとが、バンコランという男性の恋人であるあのひとが、美しい「少年」だ、なんてことは……

私(6)の質問にたぶんあえて答えなかったのであろう母には、心から拍手を送りたい。耐えてよく頑張ったんだね、お母さん。でも、私(6)の名推理に「そうだよ」と同意もしてくれなかったんだね、お母さん。涙が出てきます。

「そうか、あの金髪の人は男だったんだ!!!!!!!!!!」と私にコペルニクス的転回(まさに天動説→地動説くらいのものである)が起こったのはいつだったか、もう思い出せないが、その時の衝撃と言ったらたとえようもない。たぶん小学校も高学年以降のことだったろうが、これはまるで雷が落ちたような大発見だった。

だけど、6歳の私には心から拍手を送りたい。子供はすごいな。確かに名推理、ナイスファイト。これだけの思考を費やしたのである、「初恋はいつ、だれに?」と聞かれたら、「6歳の頃。相手はマライヒ」と答えてもいいくらいだ。恥じることは何もない。

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幼稚園のころに「パタリロ!」のアニメが大好きだった子供は、何年かして今度は妹が買ってくる月刊誌「りぼん」を読むようになった。いたいけな少女時代のはじまりか?

だが「パタリロ!」が好きだった私だけのことはある。「りぼん」中最も大好きだった連載は「お父さんは心配症」。この作品は私(9)の指向のど真ん中を見事ぶち抜き、現在の自分にも残るスピードとセンス重視という傾向のベースがここに完成されてしまった。神は私を放さない(神のせいにすんな)。

「お父さんは心配症」のキャッチコピーは今も忘れない。毎回誌上に一回は書いてあった……「少女マンガ界に咲くドクダミの花」。

私(9)は、「250万乙女の恋のバイブル」というキャッチの「星の瞳のシルエット」の250万倍は「お父さんは心配症」の方が好きだった。どうして「お父さんは心配症」は巻頭カラーにならないのか、ふろくにならないのか、読者全員プレゼントの企画が起こらないのか、不思議でならなかった。その当時の私の考えはこうだ。

「「星の瞳のシルエット」なんて、始まって1コマ目で香澄が久住君に「好きだ!」と言えばその場で最終回。だけど、「お父さんは心配症」はそんなもんじゃないんだからね!!」(確かに、そんなもんじゃない)

もしふろくに「お父さんは心配症レターセット」とか、「お父さんは心配症着せ替えセット」、あるいは「お父さんは心配症ハウス」とかがついていたら、私は決してふろくを毎月妹にきれいさっぱりあげるようなことはしなかった。たぶん「お父さんは心配症」のふろくだけは妹にやらなかったに違いない。

絵柄は未完成なのだが、この作者の世界観たるや実に素晴らしい。一話に一回は必ず出刃包丁と流血があり、極太の毛筆で「うを〜〜」と書かれた少女マンガなど他に見ることはできない。作者(女性)は連載開始時どうやら17歳だったようなのだが、若気の至りなどでは説明できぬ物凄いパワーと才能に満ちた傑作である。

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「お父さんは心配症」の連載終了後、「こいつら100パーセント伝説」の人面瘡ネタなどでバカウケしているうちに高校生になった私は、今度は「伝染るんです。」を連載ではなく単行本(ハードカバー)で欠かさず買って、祖父江慎の素晴らしい装丁を楽しみながら、ハワイに行けないかわうその顛末などを面白く読むようになるのだが、その話はまた機会があったらゆっくりと。

02/1/10(木) am 女湯の観察
昨日重大なことに気づいた。2001年の日記の日付が、全部2000年になっていた。丸1年全く気づかないで書いていたわけで、我ながら呆れながら修正した。

前の日の日記のテーブルをコピーして日の部分だけを変更して書き始めるパターンだったので、今まで年をきちんと確かめたことがなかった。とはいえ1年ずっと気づかないのはひどい。去年1年間、私は錯乱しっぱなしで日記を書いていたのだろう。

みなさんはやっぱり、気づいた上で読んでいらしたんですよね?1年間……(ひどいよ…誰か教えて…)

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正月に温泉に行ったことは前に書いたが、温泉で楽しみなのはやっぱり風呂、風呂で楽しみなのはいろんな女性の裸を見られるということである。

私は男性ではないので、女の人の裸を見て「ひゃっほう!」とは思わず、「うーむ、なるほど」と思いながら見るのである。何というかこう、人の体にはその人の人生がにじんでいるというか、ちょっと感動しながらお風呂に入っているわけなのである。

温泉には高齢の方が多く、おばあちゃんたちの裸が一番面白い。しぼんだ感じの皮膚や、よろよろと背中を曲げながら浴槽に入る様子などを見ていると「長く生きたんだなあ」と感動してしまう。

中年の女性も興味深い。大概は小さな子供と一緒に入浴しているのだが、露天風呂の岩の上をちょこちょこ歩いてあちこち動き回る息子の小さいお尻を追いかけ回して、大声で息子の名前を呼びながら重たそうな体をパワフルに動かしている。その太い胴回りには生命力を感じずにいられない。この先に息子の思春期や反抗期やできちゃった結婚があっても、このたくましい胴回りが問題を乗り越えさせてくれるだろう。

妊婦さんもすごい。妹が妊娠5ヶ月だったので初めて妊婦さんの裸というものを真面目に見たのだが、妊婦さんの体とは生命力の塊である。全く素晴らしく、そのオーラの前にはまぶしさすら感じる。

確か『源氏物語』では妊娠中の葵上を光源氏が美しいと感じる場面があったような気がしたが、さすが源氏、通は妊婦さんを美しいと思える感受性があるのだ。あんたすごいよ。男性の方には、ぜひ一度奥さんが妊娠中にじっくりそのすごさを味わってもらいたい(決して女湯をのぞかないでください)。

男性は女湯が高橋留美子のマンガに出てくるような「パラダイス」だと思っているかも知れないが、実はさほど「パラダイス」でもない。上記のように、たぶん男性が望まないであろう裸の方が多い。のぞいてみたら修学旅行の女子高生の団体、という確率よりも、老人クラブの団体さんのご婦人でいっぱい、ということの方が確率的には多い。

ところがごくたまに、「うーんこれは…」と唸るような美しいプロポーションの女の子も入ってきたりするから女湯っていうのは奥が深い。手足がすらりと伸びて、色が白くて首が長く、ウエストが細くて……ってあんまり詳細にこんなのを描写してもR指定になるので書かない。

でもまあとにかく、ごくたまに、男性が想像するような模範的なプロポーションの女性が入ってくるわけである。私は口をあんぐり開けて見とれてしまう。「なるほど、実在するんだなあこういう体」というレベルの素晴らしさである。

ところがそういう女の子の温泉の入り方というのは、お世辞にも清々しいとは言えないことが多い。男性のみなさんは、そういう女の子は楚々と浴槽につかり、手で肩にお湯をかけながらゆっくり入浴していると思うかも知れないが、それは大間違いなのだ。

彼女たちは大体、スーパーの買い物かごの半分くらいの大きさのカゴ(形としてはスーパーのカゴと全く同じ)を持って入ってくる。おいおいこの人達は一体何をしに来たんだ?と思いながら見てみると、カゴの中には、洗顔フォーム、シャンプー、リンス、ボディソープ、洗顔用スポンジにブラシ、歯磨きセット、体を洗うためのナイロンのスポンジ、などなど入浴グッズがぎっしり入っているのだ。しかもどれも大容量の容器ばかりがどかどかと詰め込まれている。シャンプー・リンス、ボディソープなんてポンプタイプで入っている。

いい温泉に行けば、ボディソープもシャンプー・リンスもたいていは風呂場に備え付けられている。大体、そんなポンプタイプぎっしりのカゴなどという大仰な装備でなくても、携帯用の容器に詰め替えて持ってくるくらいのことはできるはずである。それが不思議なことに、本当にそういう素晴らしいプロポーションの女の子に限って、カゴにぎっしり詰めて入ってくることが多い。

温泉に行く前によいしょとカゴを取り出してアパートの風呂場に入り、手当たり次第に入浴グッズを放り込んでいるガサツな姿が想像されて、相当興醒めする。あーあ、こんなにいいプロポーションなんだけどなあ…

しかも、彼女たちは浴槽にゆっくり浸かったりはしない。入って来るなりシャワーの前に陣取って、戦争のように体を泡だらけにし始める。長い髪はぶくぶくに泡立てられてごしごし洗われ、全身の泡を流したら今度はそのまま歯磨きを始める。とにかく見た目の楚々とした風情が嘘のようになってしまうのである。

30分は洗い続け、全身くまなく洗ってようやく浴槽に入っても10分程度しか温泉につからない。お風呂を出れば洗面台の前でドライヤーをゴーゴー言わせて髪を乾かし、再び入浴グッズぎっしりの重たそうなカゴを持って女湯を去っていくのだ。

私が温泉にいる間、入浴時にそのような女の子のグループが入ってきたことがあるのだが、そろってどでかいカゴを鏡の前に置いて並んで髪を洗いまくる姿は壮観であった。そこまでしてこだわらなければならないほど重要な体なのか?と不思議に思うが、そこまでしなければならないほど重要なのだろう。別な温泉に行った時もああいう「カゴ娘」がいたが、10代から大学生くらいまでの女の子たちの間で「カゴ入浴」が流行っているんだろうか? 雑誌に、「温泉入り方マニュアル」とかの特集があって、それでこういうやり方が紹介されてでもいるのか? ぜひ知りたい。

ところで、私が女湯に入っていて姿の美しさにとりわけ物凄さを感じたのは、13歳くらいの女の子である。彼女たちは肌の張りが全然違う。全年代で最も美しい肌をしているかもしれない。しかも13歳くらいまでは例のカゴ娘のような人々とは違って、純粋に温泉を楽しんでいて元気である。天使的な美しさを持っている。

「そうか、ロリコンってなるほどね…」と思ってしまう美しさを彼女たちは持っているが、このように無垢な女の子への欲求に駆られて実際の行動にまで出てしまう人々は絶対に許せない。こんなにかわいい女の子達は、やっぱり遠巻きに見て守ってあげなければいけない。

でも私が今回の温泉旅行の女湯で最も心に残ったのは、1人で入浴していたちょっとさびしそうな女性だった。30代と見えて、体つきは太ってはいないものの先に書いたような素晴らしいプロポーションの女の子達にはとても及ばず、かと言って子供を追いかけ回すたくましい中年女性とも違い、どちらかといえばやせ気味の体型。貧相な体型、とも言えるかも知れない。

髪も太くて張りがあるわけではなく、細くてしんなりした肩までの長さの髪を後ろにまとめている。静かな雰囲気で、黙々と体を洗うとあとはゆっくり浴槽につかっている。どことなく品があって、どういう人かわかりにくくて興味がひかれる。『源氏』の空蝉のような魅力を持った人であった。

かく言う私もこんな女湯観察を呑気にやっているくらいだから1人でのろのろ入浴しているのだが、1人で入浴していると混み合う時間帯は団体に押しのけられて結構肩身が狭い。脱衣所では子供に服を着せる中年女性や談笑する老婦人達の間で何とか場所を見つけて着替えている。このときに例のミステリアスやせ型女性とたまたま脱衣所のカゴが近くて、着替えている時に目が合ってしまった。

話しかけて素性を探ろうかとも思ったがやめにした。女湯には1人くらいミステリアスな人がいた方が、ちょっとはロマンが残っていいだろう。声を聞いてみていきなり山形弁だったりしても何だか興醒めだし…。

きっとあの人は、東京から旦那さんとやって来て男湯と女湯に別れてお風呂に入り、1人の時間となった浴槽で彼女は人生の来し方行く末と、子供のいない(私の想像ではそうなってしまっている。だってこの年代で子供を連れていないのは不自然だし)夫婦生活の紆余曲折を思い返してひとりしみじみしていたのだ……とか想像したら、ちょっと心が救われる。やっぱり、冬の温泉がしんから似合う人が女湯に1人はいてくれなきゃ。

02/1/7(月) pm 2002年の決意
2002年になった。今年はどんな年にしよう。年が明ける0時には、長年の懸案事項が片付けばいいと年越しそばを食べ終わりながら思った。

でも私が今までずっと解決法に悩んでいたことは、昨年の年末に旅行に行って劇的に解決してしまった。要するに、ひとりでいるっていうことは、悲しいことでも惨めなことでもなく、自分自身の内面を充実させるために時間をフルに使える贅沢な状態であるということに気づいたのである。

それに気づいてしまうと、私がずっと悩んでいたことは見事雲散霧消し、誰もいなくても別にいいじゃないか、いやむしろ好都合、という境涯に至ってしまったのである。

その証拠に、去年の年末の1人きりの京都旅行は今までやった旅行の中で最も楽しいものだったにも関わらず、年明け早々に家族と行った温泉旅行は、たった2泊なのに今までで一番気詰まりで疲れる旅行だった。家族と一緒にいることが大変なストレスになり、たった6日間実家に戻っていただけで、再び心臓がおかしくなるくらいの疲労がたまってしまったのである。

2泊3日の温泉旅行は、昨年家の中でいろいろなことがあったので、一度くらい家族で旅行に行って家族そろっての時間を持とうということで行った。妹の希望で部屋を全員(7人)一緒にしてしまったため、たった一人の時間は全くない。

母と祖母に問題が多く、気を遣ってさっぱり旅行が楽しめない。やっぱり違う部屋をとっときゃよかった、と後悔しても後の祭りで、針のむしろのような旅行になってしまったわけである。全く嫌な旅行だった。

旅行の手配は全部私が行ったが、祖母や母の様子にはほとほと参った。孫や娘ではあるもののとてもフォローしきれなかった。私がもう疲れ果てた2泊目は祖母の面倒を妹や弟が見てくれたし、祖母と母以外は旅行を比較的楽しんでいたので救いだったが、私に残ったのは結局家族であっても一緒にいると途方もないストレスを受けることがあるという苦い教訓だけだった。何しろ唯一心が安まったのが、1人でお風呂に入っている時だったのだから…。

気を使ってまで誰かと一緒にいるくらいなら、1人で有意義な時間を過ごしている方がずっといい。そう思ったのでなおさら、1人であることの価値が重く感じられるようになってしまった。それだけでもう1年の計は十分であろう。

やっぱり私は他人と一緒にいるというストレスに耐えられないらしい。

……そんな私に縁結びおみくじで「柏木」を引かせた下鴨神社の神様はえらかったと思う。気休めの言葉は一切無く「君は耐えられないと思うよ?」というあの問いかけ。私が連理の榊を目指そうとすれば、ストレスで死ぬというわけだ。さすが京都の神様は年季が違う。よくわかっていらっしゃる。

 


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