この複雑な事情をわかって

 

 

 

02/2/23(土) am 巨大な僧侶の夢
先日見た夢はなかなか面白かった。

和モノのファンタジックな夢だった。薄暗い、まるで古い寺の本堂のような、黒光りのする板張りの、高い天井の広い部屋の中に私はいる。時刻は、たぶん夜である。

得体の知れない化け物が来るので、私は必死に逃げる。化け物に対抗するには般若心経を唱えなければならないのだが、私は般若心経を暗記していないので、最初の数文字しか言えない。

困っていたところに、私は偶然、巻物のような形のお経を見つける。中身を見てもいないのにこれを化け物から逃れるために使えると思った私は、板張りの床に座り、自分のまわりに巻物のお経を広げて円を描き、自分を丸く囲むような形を作った。これなら、化け物に対して結界ができ、姿が見えなくなって私は無事なはずである。

ところが、その目論見は全く外れ、化け物はお経の結界を物ともせずにこっちへ向かって来るではないか。びっくりした私はお経を持って走り出した。

廊下も、黒光りのする板張りが続く。走って走って、私は向こうの方に御簾の下ろされた空間があるのを見つける。この建物は天井が妙に高い。そのため、御簾はまるで緞帳のように長く、幅が広い。私は走って、御簾のそばに来た。

御簾の奥の空間には、巨大な影が見える。近づいてみると、それは巨大な僧侶であった。僧の姿をしている人物なのだが、身長が2階建ての家の屋根くらいまである。その身長に比例して、体も巨大だ。その僧の後ろには、同じく巨大で、ざんばら髪の人物が控えている。真っ黒な衣装だが、僧よりもずっと身分が低く見える。僧の従者のように見えた。

名前を名乗られたわけではないが、私には直感的に僧の名前がわかった。僧の名前は円空という。円空に私は助けを求めた。

御簾ごしに「助けてください!」と言った私に、円空が気づいて顔を向けたところで夢が覚めた。

相変わらず変な夢を見るのだが、私の夢は毎度楽しいのでちょっとしたアミューズメントパークみたいだ。誰だ、「円空」って。そんな人いるのか?と思ったら、こういう名前の人は実在したようだ。僧侶で、かつ仏師だった人に「円空」という名前の人がいるらしい。不思議。

 


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02/2/21(木) pm 時間がないのに
体調が悪い。ずーっと悪くて、ぐったりしているのにすら疲れ果てている。あーもう、何をさせたいんだ、私の体よ。

人間というのはなかなか死ねない。なかなか死ねないならせめて健康に暮らしたいというのが私の考えなのだが、死なない程度の苦しみを与えられながら生かされているという感じがしてならない。でも私なんてきっと、広い世の中で見てみたら、健康で健康で涙が出るぐらい健康である。

何がそんなにぐったりしているのか知らないが、私は早く元気を出さなくちゃ。そうでなければ、短い人生、時間がもったいない。

……そういえばこの間友人と飲んでいる時(酒を禁じられている私は当然ずっとお茶を飲んでいるのだが)に、「私には時間がないんだよ!」と言ったら、友人に言われた。

「何をそんなに焦るの?」と。

期限内に様々な物を手に入れ、余裕のある人にはたぶんわからないだろう、この焦り。きれいごとを言えないくらい、私には時間がない。こんなに体調を崩すってことは、人より衰えも早いっていうことなんだし、時間がない。

友人たちのご両親に比べて、うちは両親の衰えも早い。刻一刻といろんな責任が私に降りかかりそうだ。若い若いと言いながら身軽に遊び回れる時間なんて、もうあと2年あるかないか…。そのことは、自分が一番よくわかっている。

ストレスで死なないうちに、大焦りしながらたくさんのものをかき集めて、早く自分のポケットの中をいっぱいにしなければいかないのに、私のポケットはまだ空っぽなのだ。借金もあるし、あとは手のひらからこぼれ落ちる砂みたいなものばかりしか持っていないような気がする。たくさん入っていてぱんぱんにふくれているように見えるが、本当に辛い時にすがれるロープはないような虚しさ。

いやいや、ネガティブ思考はいけない。確かにすがるロープはないけれど、私には他の人にないものもあるはずだ。そうだ、がんばれ自分。

ドラマ「恋ノチカラ」で、純粋なお嬢様の矢田亜希子を徹底的にいじめる猫背椿を見て「確かに、わかるよその気持ち」と思ってしまうあたり、私の限界は近い。でも、もうちょっと、踏みとどまろう。

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そういえば最近気づいたのだが、ありのままの自分の魅力というものを見つけることができて、それをありのままに表現さえできれば、人間は誰でも輝けるのではないだろうか。

自分を等身大以上に見せようとして人は四苦八苦し、かえって胡散臭くなり、それがゆがみやねじれになってその人の本当の良さを見えなくしていることがあるように思う。素直でまっすぐが一番の表現方法のはずだと思うのだが、それができないために。

自分の魅力を知ってそれを素直に表現さえできればたぶん誰でも、キラッと光るに違いない。……でも、「自分の魅力」っていうものに気づくということがまず難しいんだろうが。見つからなければ、自分の魅力をはっきりこれと決めて、そこを伸ばす方がいいのかもしれない。

02/2/10(日) pm 素朴な疑問・旅行の計画
最近の素朴な疑問。

「どうして理系の人は、"、(てん)"や"。(まる)"ではなく、",(カンマ)"や".(ピリオド)"を使って日本語を書くのだろうか?」

まあ、たぶん論文とかの形式がずっと横書きだったりして、伝統的に西洋ベースのこういう句読点がスタンダードなのかもと予想してみる。だが、文系の私としては独特な印象があって、理系日本語という感じがする。

普段から使っている人には違和感がないのかもしれないが、就職したら普通の句読点に直し始めるのか、それともそういうことに気づかないくらいなじんでいて、ラブレターを書く時もカンマとピリオドを使うのかとか、結構気になる。

それとももしかして、こういうカンマ・ピリオド日本語は、文系でも法学系とか経済学系には広まっているんだろうか?

理系の人でも、日常的にはカンマ・ピリオド日本語を使わない人もいる(例えば私の弟は理系だけど使わない)。そういう人は、何かポリシーがあってのことなんだろうか。その人の日本語に対する感覚とか、日本語体験の違いなんだろうか。考えるほど気になる。

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また京都に行く計画を立てている。今度は三重や奈良にも足をのばそうかと思っているのだが、とりあえず京都のホテルに宿泊の予約をした。今度もまた1週間程度滞在するつもりだ。

行くのは3月なので厳寒期は過ぎているとは思うが、きっと寒いだろう。この間行った時にだいぶ回り尽くしてしまった感があって、どこに行こうか考え中である。

冬だし、梅・さざんか等の冬に咲く花以外の花や紅葉が見所の場所に行っても仕方ない。基本的に全部枯れ木を覚悟して行き、枯れ木でも見られる場所に行かなければ意味がない。

それにしても、こうやって計画を立てている時はさほど面白くもないのだが、いざ一人きりでどこへでも行ける当日がやってくると、びっくりするくらい元気になる。足かせが外れて自由になれるので、のびのびした気分になれるのだ。不思議なことなんだけど。

02/2/8(金) am ある気配り
私の部屋では、ヒヤシンスが咲き終わり、今は水仙が咲いている。

パッケージの写真を見て変わった花の水仙だと思ったので、球根を買って鉢に植えたり水栽培にしたりした。そうしたらあの写真の通り咲いているのでびっくりする。

白く小さい薔薇のような花が、折り紙で作った手毬のように球状に集まって咲く。こぢんまりしている上に、白い花だから葬式の花のようだが、甘い香りがしてなかなかかわいい。

ヒヤシンスに水仙と、どうも花のいわれが耽美っぽいのが少し気になるが。一鉢の中に、自己愛のあまり死んだナルシストと、神を惑わした美少年が混在する。すごいな。

私の場合、月桂樹でも買ってきて植えとくほうが落ち着きはいいかもしれない。

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この間、夜中に学校に行った帰り道のこと。

自転車で坂を上っていると、前方に不審なスクーターがいる。スクーターにしてはどうもスピードが遅すぎるのだ。近づいて、電灯の光が差したところで見てみたら、スクーターの隣に、歩道と車道を区切るガードレールを挟んで自転車に乗った人がいるようだった。

自転車に乗っていたのは女の子だった。正確に言えば、坂が急なので自転車を引いて歩いていた。スクーターの彼は、その女の子に合わせて超低速で隣を走っているのであった。

(あーもうわかった)

たぶん、あの感じは彼の方が女の子を好きなのだろう。研究室か部活が同じで、今日はたまたま二人とも夜遅くまで学校に残っていた、その帰り道だろう。同級生か、あるいは先輩と後輩か…どちらかといえば、同級生っていう感じがする。

後ろまで漏れ聞こえてくる女の子の声は、そんなに弾んでいるわけでもない。女の子から見て彼は、友達と友達以上のボーダーライン上にいるらしい。あるいは、相手の気持ちに気づいていないのか。それもあり得そうだ。

反対に、男の子の声は相手との間合いを必死に計っている感じ。わかる、君の気持ちはもうわかった。なるべくその子と一緒にいたいんだろう。だからそんなことをしてまで一緒に帰ろうとしているんだね…と心の中で瞬時に分析する。

前の二人が超低速で進んでいるので、一気に坂をこぎ上ろうとした私だったが、どうも邪魔ができない雰囲気だ。今夜が、彼にとっては千載一遇のチャンスかもしれない。目の前で彼の彼女に対する告白が始まりかねないようにも見える。

私が二人を追い越すには彼女の隣をすり抜けなければならないが、歩道が狭すぎてどうしても二人の邪魔をしてしまうことになる。もし、「あの、良かったら俺と付き…」っていうところで私が「すいませ〜ん」と邪魔に入ったら、私はきっとあの男の子に一生恨まれるだろう。いくら私でも、馬に蹴られて死ぬのは嫌だ。

あの二人の邪魔をするのはとても気が引ける。

時刻は、午前0時30分を少し回ったところ。しんしんと冷えて息は白く、空が晴れて星が出ている。路上は電灯が途切れると真っ暗。私は彼らが気にしない程度の距離を保って、自転車のライトを消し、そうっとゆっくりゆっくりこぐ。

おそらく、二人とも私より年下だろう。ハタチぐらいに見えた。ふと、スクーターのエンジン音が止まる。とうとう彼はエンジンを止めて、スクーターを引いて彼女の隣を歩き始めたようだった。本格的に、彼女の家まで送っていくらしい。頑張れ若者よ、君の年齢で守りに入るのは早すぎる、鈍い女の子を好きになったなら気づかれるまでそうやって粘りなさい。

二人の間の空気が重くならないように、一生懸命会話をつないでいるらしい彼。彼は彼女のナイトになりたいんだろう。ひとり暮らしでろくなものを食べてなさそうな、やせっぽちの体で必死である。

(ナイトになるなら、もうちょっと鍛えた方がいいかもしれないねえ…)

まずい。感動のあまり、泣きそうになってきた。一生懸命な人の姿とは感動を誘う。最近どうも涙もろい(でも私が感動してどうする)。

ますます追い越しづらくなって、私も自転車を降り、歩いて坂を上り始めた。あのような人の姿を見てしまってはどうにも邪魔なんてできない。だが前方を見ていると、あったかいような苦しいようなどうにも言えない気分になって涙だ。こんな夜中の学校帰りに涙だ。

目のやり場のない私は仕方なく空を見上げるしかない。うーん星がきれいだなぁ!(半分ヤケ)

ここであの二人を見て胸に去来する思い出のひとつやふたつ、あっても辛いし、なくても惨めだし……

02/2/1(金) am ビョーク似の検証
とうとう「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見た。

内面の世界と現実の世界との距離、自分と他人との距離をここまで描くこの潔さ。同じように多少空想癖のある人間としては、そうそう、とわかる部分もあるんだけど、何だか恐ろしく冷たさが漂う映画で、それが逆にアーティスティックで妙に良かった。

これはたぶん、ストーリーを楽しむ映画ではなくて、趣向を楽しむ映画なんだろうなあ。少なくとも、ラストで感動して涙を流すような映画とは違うし、わくわくする映画というのとも違う。歌とダンス部分を切り離して見るときの面白さと、映画全部をつなげて全体を考えた時の面白さが全然異質で妙な味わい。映画って奥が深い。

前にこの映画が日本で公開された頃、以前働いていた塾の同僚である女性講師(性格悪し)から、「○○(連打屋の本名)先生は、ダンサー・イン・ザ・ダークの主役の人みたい」というようなことを言われ、「は?」と聞き返したら「わかんないならいいです」とぴしゃりと返されるという非常に不愉快な思いをした。

後でこの映画を既に見ていた友達に聞いてみたら、「それはたぶんほめ言葉じゃないよ」ということで、映画の内容を説明されてますますその先生を嫌いになったわけである。

で、いよいよどういう意味で自分が「セルマみたい」というけなし言葉を使われたのかを確かめる時が来たのである。結果、次のような可能性が挙げられる。

  1. 容姿が似ていた(顔、体型、髪型など)
  2. 服装が似ていた(スカートにカーディガン)
  3. 声が似ていた
  4. 空想癖が似ていた
  5. 頑なさが似ていた

……なるほど、分析すればするほど、確かにけなされていたのに違いない。だんだん腹が立ってきた。ちなみにこの人の送別会がこの間あったらしいのだが、私は祖父の命日だと大嘘をついて欠席した。嫌いな人と嫌々飲まねばならないほどバイト先に義理はない。

たぶんその先生にしてみればけなしたつもりだったんだろうが、私にとっては割とこのセルマ役のビョークは好印象だった。一般的な綺麗さとは違うが容姿に個性的な魅力があって、話す声がかわいらしい。空想癖も頑固もカーディガンも同じなのだから、これはなかなかはまったけなされ方をしたものだ。

 

 

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