どこだ! 出てこい!!

 

 

 

03/3/23(日) am 日曜日の呟き
(その1)椎名林檎の「やっつけ仕事」を聴く。

ニューアルバム(タイトルはとても口に出せない。こんなネーミング、アリなんだろうか?)に新しいアレンジで入っていて、これがライトでいいのだ。そうそう、私もよく、このくらいの軽さで、全く同じ事を考えている。

百戦錬磨の椎名林檎も、大潔癖の私も、全く同じ事を考える。深刻な風でもなく、ライトに。私の周囲の人々は、夢にも思わないだろう。これだから女って恐ろしい。でも、真実。

洞察力のある人には私の中身がばれることもあるらしい。職場には滅多にいないが、数少ない1人が、派遣社員ながらチーム内イチの売れっ子のマックさん(29)だ。一児の父。恰幅がよくて、鋭い視線の持ち主だ。その人が私によく言う口癖は、「○○(連打屋の本名)さんは、怖いからなぁ」。

かなり初期の頃からそう言っているからすごい。そう、私は表に出さないだけで、本当はたぶん怖い。ドロドロのウエット気質なのに、どんな人物にも冷静な分析を絶やすことのないドライな目を持ち続けられる。

執着しながらものめりこめない、という事態も起こりえる。自分でもよくわからないのだ。この矛盾。

…どこまで見抜かれているかわからないが、普段ニコニコしている割にドライな所くらいはどうやら見抜かれたらしい。たぶん、1回ワセダ先輩を冷静分析したのを、マックさんへひと言だけ口にしたのがまずかったのだ。

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(その2)たぶん私は、実際のところは職場の周囲の人たちより精神的にはずっと年をとっている。今までいろいろつまんない苦労をしちゃってきた結果みたいで、精神的に老いちゃっている。

周りにいる人たちは、あったかくて、物質も文化もたっぷりな東京暮らしがごく普通のことで、ついでに親が健康で、愛情も家庭の財産もたっぷりあって、健康にも恵まれて、有名私大の文系学部で華やかに楽しく20代前半を過ごした人たちばかり。精神的な年齢が10〜15歳違う気がする。私現在、精神的にはたぶんもう30代後半。おかげでゼブラ係長としゃべっていると心が落ち着く。

…さっぱり、「若い女」じゃないよ…

職場の若手の人たち(私と年齢的に2歳前後しか違わない人ばかり)と飲んでも、さっぱり楽しくない。全く楽しくない。なまじ酒が強くて、多少飲んでも全然酔わず、そのうえ胃が弱くて自分が酔っぱらえるほどの量を物理的に胃が飲めない私は、ひたすら醒めた目で周りを見渡すばかり。

周囲の人々が酔って前後不覚になり、セクハラまがいに絡まれてもやたら冷静なまなざしで眺めてしまい、うまく対応できない。それをおもしろがられ、さらに絡まれて、苦しくてならない。

私もあなたたちみたいに、年相応の若さを持ち続けられるほど幸せでありたかったよ。でも私、あなたたちのような若さを高校生の時すら持っていたかどうかあやしい。

たぶん、小学生まで戻らないと無理だ。中学で3年間いじめられる前でもまだ足りず、出る杭として打たれ続けるのにくたびれ果て、自己アピールを一切控えた地味人間を志し始めた9歳よりも前の年齢に戻らないと。

…ことによると、幼稚園かな…でも5歳の時点ですでに「おかあさんといっしょ」も「ポンキッキ」も「子供だと思って馬鹿にしやがって」と思っていた私だから、一体どうしたものか…

仕方ないか。周りの人たちは、中学の時にいじめっ子か、あるいは傍観者に回れるだけ要領のよかった、恵まれた人たち。私は自分を守る術を何一つ持たず、私の存在を見て見ぬ振りの華やかな人たちを横目で見ながら、いじめられる自分の存在に耐えて冷静に勉強ばかりしていた人間なんだから。ストイックでも仕方ない。

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(その3)この年齢になると、ストイックで暗い自分を責める気分にはさっぱりならず、与えられた環境の割にはお前結構よくしのいできたよ、とある程度ほめてあげる気にしかならない。

だけど、周りに快楽主義の人々が多い現状では、世渡りが辛い。たぶん私のような変わり種が混ざっていることは、仕事上この人たちにとっては決してマイナスに作用することはない。むしろ私のような泥臭い状況に強い耐性を持った人間は、この人たちが嫌がる仕事も平然とやってのけるんだから(まあ、それをやりすぎた結果肺炎になったんだろうが)。

この人たちの困ったところは、私にも自分たちと同じコミュニケーション方法を強要するところだ。思った通り、酒席がひどい。それにいつかは私がついてこられると思っているらしい。私の予想では、たぶん一生無理。だって酔えないから。

どうやら私の周囲の人々が自分の思いを発散する場面が、主に酒席のようなのだ。私は他に大事な手段を持っているので(この日記)、酒席で自己表現なんてしなくても十分自足しているのだが、それを知らない彼らには、酒席で一切乱れのない私が信じられないらしい。だってそうじゃない。ここでありていに表現したら、彼らは引いてしまうだろう、間違いなく。

恋愛の悩みとか、職場の悩みとか、そんなの私にとっては「おめでたい悩みですねぇ」としか言えない。それを重大問題のように取り上げる彼らに、私が本当に悩んでいることなんてとても言えない。いったいどうする気だろう、酔っぱらった私が、

「なんでうちの母親、脳挫傷であんなにアタマがおかしくなっちゃうんだ! 仕事と介護疲れで昏倒したなんて言ってるけど、私はそうなる半年前から、週に1回は電話して必ず、そうなるかもしれないから気をつけてね、って口を酸っぱくして心配していたのに!! 父親はぜんそくでいつ死ぬかわかんないし! このバカヤロー!!!!! 親も頼りにならないし、友達も恋人もいないし、物理的にも人的にも資産が何にもない上に、孤独で……!」

なんて涙をぼろぼろこぼしながらグラスを割ったら。「はじけるんだ! 胸の思いをぶちまけろ!」って彼らは言うが、本当にやったらこんなになっちゃいますけど。あなたがた、ついてこれないですよね…。恋愛や仕事で悩める彼らが、むしろ私はうらやましい。

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(その4)彼らのことが決して嫌いなわけではない。むしろ好きなんだけど、負ってる荷物の重さが根本的に違う者同士だから、共有できないものは絶対にある。でもそんなことを真顔で告げちゃうのは子供っぽいし、老けてんのばれるし。

周囲としては、堅物(に、見えるらしい)の私に明るく騒いで自己アピール度を上げさせたいらしいのだが、私は悩みで破裂寸前の暗さなので、そんなことしたくもない。入院と長期休暇で今月の生活費が気になるし、日々ますます頼りにならないガタガタの郷里の両親のことは何かと私を振り回す重たい問題だし、現状まだ治りきらない自分の体調が心配だし、孤独な自分の今後の身の処し方や、老・病・死という自分の最期のことを考えると頭を抱える。

自己アピールなんてしてる場合じゃないのだ。そっと飲ませておいて欲しい。酒は強いんだし、迷惑はかけないから。…と思うが、そうは問屋がおろさない。

この間の自分の快気祝いもひどいもので、寄ってたかってわあわあ言われ(彼らにしてみれば好意なのだろうことは伝わるが)、私は困窮して咳は嵐のようにひどくなり、咳のあまり痛む脇腹をおさえながらニコニコ時間つぶし。小さな子供は親から虐待を受けている時に人格をスイッチして痛みから逃避するそうだが、私もいつそうなるかとびくびくしていた。

酔っぱらってしまえばいいのだろうが、酒に強いからちょっとやそっとではダメなのだ。かといってそんな場では酒がまずくて仕方なく、飲む気にもならなくて私はどんどん醒めていく。そうするとますます場がつらくなるという悪循環。あれほど自分の酒の強さを呪ったことはない。カクテル1杯で自我を失える人たちが心からうらやましかった。

…今度は、強い風邪薬と一緒にアルコールを服用しよう。以前、風邪薬と一緒に酒を飲んだらさすがの私も意識を消失しそうになった(でも記憶は失わなかった。無念きわまりない)。命の危険があるらしいが、人格がスイッチするよりマシかもしれない。

…いや、そこまではしない…いい加減、自分を大事にしよう…ただでさえ辛いこと、結構あるんだから。私をいたわる存在は、私しかいない。入院準備と退院準備をするのさえ、自分ひとりなんじゃないか。

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(その5)それにしても、最近気づいて面白いなあと思うのは、世の中には酒をストレス発散の主方法にしている人がとても多いということだ。

よく考えてみたら、私みたいに世界大公開でこんなぶっちゃけ日記を書いている人は職場にまずいないわけで、そうなると、彼らの場合、思いは日々胸にたまるばかりなのだろう。ちなみに私は長文日記に全部表現するので基本的には全くたまらない。

そうすると、胸にある火薬の量が根本的に違うんだから、職場の同僚のみなさんが大爆発し、私がしけった花火のように火花すら発しないのも理解できる。

でもそれって馬鹿騒ぎとか、他人とのコミュニケーションというストレス発散手段なんだから、冷静な自己分析っていつやるんだろう? 一度全部吐き出して整理しないと、対処できなくありません? 話し合って決めるの? 他人と?

そういう人にとって、自分の姿は自分で決めるものじゃなくて、他人との間で決めるものなのかな…。なるほど、他者との肯定的な関係性がおおむね続いてきた幸せな人だからこそできることだ。自分の存在や悩みについて、正しい答えをくれる信頼できる人たちがずっとちゃんと身近にいたからこそ可能だった自己規定法だ。

自我が確立される大事な時期である中学時代、ずっと同級生や先輩から無視され続け、「ない存在」として終始扱われ続けた私は、他者によって自分を規定したらとりあえず生きていられなかった。親に相談しても、母親は「妥協しなきゃだめじゃない」などと言う始末。妥協して私も馬鹿なヤンキーになってほしいのお母さん?というようなばかげた解答。

中学に行けば、毎日毎日、「お前はいない」と周囲から態度でつきつけられ続けた。はいそうですか、私はいないんですね、なんてそんなの認めてたら、死ぬしかない。でも、こんな馬鹿どものために死んでたまるかと思ったし、学校から逃げて不登校になったところで、自分にはマイナスにしか作用しないと思った。

周りは一切考慮に入れず、私は私の考えで進もう、と決意した私は、自分がどういう存在であるかということは自分で決めるしかなかった。たとえそれが、自分の勝手な思いこみであろうとも、自分の存在が壊れないように守れるのは自分だけ。

どうするかということも、適切な判断ができるまともな人間は周囲に(肉親にすら…母親もダメだったし)いない。精神的な気休めにはなっても、思春期の私が直面した「私はどうするべきか?」「私の存在とは何か? 軽いのか、重いのか? 尊重されるべきものなのか? 正しいのは奴らか、私か?」という問いをまともに考えてくれて、それに答えてくれるのは、自分自身しかいなかった。

そんなこんなで固まってしまった私のやり方を、認めてくれそうな人が周りにいない。思春期にいじめられながらもサヴァイヴした経験のある人にはわかってもらえるのだが、何しろ今の周囲はいじめる側か傍観者側だったんで、無理っぽい。むしろ「暗いよ、それ」とかって馬鹿にされるかも。

…それにしても、バックボーンが違うってのは、人間に決定的な違いをもたらすみたいですね。その重たさに気づいては、なるほどなあと感嘆する毎日。

 


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03/3/18(火) pm 連打屋、忍従の時(3)
今回は、入院をめぐる周囲の人々篇。

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【その1:自立した大正女、Mおばあちゃん(89)】

私の病室は4人部屋だった。

同室の他の人々は、みんな大正生まれのおばあちゃん。中でもMさんは大正三年生まれの寅年、89歳。生まれてから2度の世界大戦を経ている。

このMさん、飄々として、最高にかっこいい大正女だった。現在も存命している私の父方の祖母のような聴力の衰えもなく、髪は真っ白だが豊かで長く、後ろでまとめている。

妹が最近亡くなり、その納骨に参加した後、ショックから急に食欲がなくなって衰弱し、入院してひたすら栄養点滴を受けているのだった。

彼女は元々丈夫なたちではなく、心臓に持病を持ち、さらに12年前に胃癌を摘出して胃が半分以上無い。その上、3年前に転んで股関節を骨折し、今は杖をついてやっと歩けるというような状態だ。足もとがふらつくので、夜中に1人でトイレに行くことを看護婦に禁じられ、夜はおむつをつけている。

そんな状況になったら、私だったらひたすら落ち込んで、自分ももう終わりだとか何とか考え、老け込んでしまうに違いない。…だが、彼女は違う。

彼女は決して縮こまることがない。ベッドのそばに置かれたポータブル便器も、おむつも、杖も、あちこち弱った体も、何一つ、彼女のプライドやバイタリティに傷を付けることはできないようだった。

足が悪い彼女は、ベッドまわりのカーテンを閉めるのも、食事のトレイを片づけるのも、隣の自分よりもっと元気なおばあちゃんに頼んで、ちゃっかりやってもらってしまっている(隣のおばあちゃんの病気は健忘症なので、体は元気だから喜んでやってくれるのだ)。したたかで、ありがとうありがとうとしきりに言い、しっかり自分が生き抜くための術を身につけている。それがさっぱり嫌味ではないのだ。

彼女は病室のみんなに声をかける。入院が初めてで体も痛み、不安そうにしているHおばあちゃん(79)には毎朝「どう、ゆうべは痛かった? ご飯は食べられる?」と。健忘症で、今朝やってきた旦那さんとのやりとりをまた忘れてしまったAおばあちゃん(69)には、「もう、また忘れちゃったんだね。あんた、それじゃ退院はまだね」とおどけた感じで。

ガタガタの体なのに、彼女は女を決して捨てない。資生堂の基礎化粧品を家に置いてきてしまったことをぼやき、落ちていくヘアカラーを気にしている。

彼女は肉親を頼りすぎない。彼女の子供は男ばかり5人。直接お見舞いに来るのは彼らの妻である嫁達なのだが、結局嫁と自分が分かり合えないことを知っている彼女は、それをぼやくこともなく、どうせわからないんだからと期待をかけることがない。嫁である母にちょっと冷たくされたと言っては、愚痴を洪水のように垂れ流す私の祖母とは違う。

Mさんの望みは、退院してひとり暮らしのマンションで刺身を食べ、デイサービスに行って友達に会えるようになれること。だから早く退院したいと、くさることなく点滴を受け、食事を少しでも多く食べ、朝は日光浴をして歯を磨き、なるべく自力で歩いてトイレに行く。この精神的なフリーさと、恐ろしいまでのしなやかさに、私はただ感嘆し、恥じ入るばかりだった。自立した女とは、彼女のことだ。

退院の直前、これから降ってくる面倒くさいもろもろのことを思い、これからの人生の長さを思い、私はひどく不安になった。

「…ちょっと不安なんだよね。」とこぼした私に、彼女は穏やかな声と、出身の広島のなまりでただ一言、「がんばり。」と言った。

こんなばーちゃんに、私はなりたい。

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【その2:過保護な教育係(27)】

会社に復帰して、教育係のワセダ先輩が異常なまでの過保護になってしまった。

私が肺炎になってしまうほど疲労をため込んだことに、教育係として責任を感じてくれているのはわかるが、いかがなものか。

まず、外出を許してくれない。

私が管理している部屋が別のビルにあり、その設備について説明して欲しいと部署の他の先輩が困っていた。移動時間はせいぜい1時間弱で、私が行くべき所でもあるし、病み上がりで行けないこともないと思ったので、「私が行きますよ」と言った。すると隣の席で集中して企画書を打ちまくっていたはずのワセダ先輩がいきなり顔を上げた。

先輩「ダメだダメだ、お前は絶対ダメ!」

私「ええっ、でもあそこ、私が管理してるんですよ」

先輩「ダメダメ、寒風は風邪に悪い! お前は絶対ダメだ!」

猛反対にあい、私は行けなくなってしまった。

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復帰4日後に、新入社員が全員参加しなければならないという泊まりがけの社内研修があった。ところがワセダ先輩にはこの研修すら許し難かったらしい。

ワセダ先輩のPDAのスケジューラには自分のスケジュールと並んでご丁寧に私のスケジュールまで入力してある。スケジューラを見て、私が復帰する数日前にその研修のことを思い出したらしく、私の参加について早速ゼブラ係長に相談していたらしい。

そして、私が復帰する前日にメールでその旨が連絡されてきて、まさか欠席させられるの?と驚いた。

全員参加で久しぶりに同期と話し合える貴重な機会を逃したくないと思った私は、復帰すぐに係長に相談して参加させてもらうよう話をとりつけた。係長は「無理はしないでね」とあっさりOK。だが、「係長に相談して、行くことにしましたんで」と言った私に、「ええ?」とワセダ先輩はずっと渋い顔をしていた。

先輩「本当に大丈夫なのか?」

私「大丈夫です、総務の人に聞きましたけど、徹夜したりするようなものじゃないって言うし、私も早く寝て無理しないようにしますから」

先輩「いいか、泊まりがけってことはその晩は懇親会とか何とか言って飲み会があるんだぞ! 飲まされたらどうするんだ!?」

私「あ、そうなんですか? だけど、そうだとしても私飲みませんし、早く引き上げますから…」

先輩「本当だろうな!」

私「はい」

だから、飲みませんって。ほとんどビール中毒の先輩と、お酒が特に好きではない私とは行動特性が根本的に違うんですから。自分を基準に考えて心配されても…

ちなみに、このやりとりをしたのはチーム会議の席である。チーム全員、係長にすら笑われたのは言うまでもない。

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研修に行く前日には、部署の同期バード君の教育係であるホワイト先輩に、

「なあホワイト、俺らも一緒に研修行くか! 後ろで見ていよう」

などと口走っていた。さらに念押しのように「いいか飲むなよ!」と帰りに言われる始末。

(…なんだこりゃ)

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なんだこりゃな状態で、とりあえず研修に行った。1日目、ちょうど研修が終わって宿泊の部屋に戻った私にワセダ先輩からメールが入っていた。件名:「消灯時間」。

"もう寝なさい!"

と、書いてあった。しかし、その後の懇親会に形だけでも顔を出したかった私は、30分したら戻ってきて寝ますと返事を返した。

すると45分後にまたメールが来ており、今度は

"もう寝たか?"

これはどうも、私が就寝する目処がたたないかぎり心配が継続するらしい。さすがにこれは細かすぎる報告では…と思ったが、実況中継ばりにありていに書くしかないとも思ったので、これから風呂に入るところで、もう寝るという旨を返したら、やっとメールがおさまった。

同室で仲の良いMちゃんにそれまで起こったことを話したら、

「パパみたい!」

と笑っていた。

はっきり言う。私は父にだってここまで心配されたことがない。研修についてくるなどと口走った先輩の心配症は、私の授業参観に一度も来たことのない、行きたいと言ったこともない父を既に、はるかに超えた。

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ワセダ先輩の心配症はこれで終わらない。復帰してからずっと、ワセダ先輩は私が夜の7時以降まで残るのを許してくれない。ひとりで帰すことすらしない。

夜6時を過ぎると帰れ帰れとせかされ、じゃあ帰らなきゃと思って6時半に帰り支度を全てすませてよし帰るぞと席を立とうとすると、逆にちょっと待てととどめられ、ワセダ先輩まで帰る準備をして一緒に帰ってしまうのだ。ちなみに私はそれまで30分は待たされる。本末転倒である。そんなことを何日も連続で続けている。

ワセダ先輩は忙しく、私の何倍も仕事を抱えている。そんな人が定時に近い時間で帰ってしまったら仕事はどんどんたまるばかりで、ワセダ先輩に仕事を頼んでいるたくさんの人々が困っている雰囲気がひしひしと伝わってくる。「おいまた早く帰るのかよ?」という視線が背中にぶつかる。それなのに先輩は無理矢理一緒に帰る。

もしこれが私が心配なだけでやっているとしたら、岡田あーみんも真っ青な心配症の世界だが、理由の半分は、仕事があまりにもありすぎて、そこから逃げ出すために私を口実にして自分も帰りたいということのようだが。だがそれにしても、いかがなものか。

3日目に心配になった私が「あのう、早く帰っていいんですか? 作業が終わらないんじゃ…」と控えめにとがめたが、「こんな仕事は明日ちょちょいのちょいだ!」と言われ、ダメだった。

4日目で、とうとう2週目に突入した昨日、さすがにこれはいけないと思ってワセダ先輩が席をはずした隙に見つからないようにさっさと帰った。そうしたら、会社のビルを出て信号を渡ったところで携帯が鳴り、先に返ったことに抗議された後そのまま待たされてまた結局一緒に帰ることになってしまった。

ワセダ先輩が外出で直帰する今日は、さすがに一緒ではなかったので安心したが、その代わり外出前にしっかり「いいか、早く帰って寝るんだぞ」と釘を刺された。

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確かに、ワセダ先輩は少し仕事から逃れた方がいいと思うので、私の一件が逃げ場になるならそれはそれでいいのだが、やっぱりいかがなものか。あんまり過保護すぎるのは私のためにならない。

あまり考えるまい。精神年齢が実際より20歳は下のワセダ先輩は、飽きるのが早い。すぐ飽きて、やらなくなるだろう。もともと、私の前の教育係のスウェーデン先輩とは違い、1人の世界に閉じこもる職人肌で、人の面倒を見たり指導したりするのも苦手なのだから。

それにしても、1割くらいしか一緒に仕事をしていないにも関わらず、マインド面でだけサポートされるのもどうかと思う。教育係がいるのもあと2週間。それまで十分サポートしてもらうか…

03/3/16(日) pm 連打屋、忍従の時(2)
2日分更新してみました。下にもう1日分あります。

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みなさんには想像がつきますか。

女ひとり、たったひとりで入院し、たったひとりで退院する惨めさ。

準備も独力で、引き払う時の片づけも独力で、闘病も基本的には独力で。コンスタントに見舞いに来てくれる人もなく。辛いったら無い。

一昨年亡くなった母方の祖母が言っていたっけ。

「いいか連打屋、結婚しないなんて言うもんじゃない。女ひとりというのは、病気と葬式がひどく惨めなんだぞ。病気になったら自分の家族以外は誰も助けてくれないし、葬式だって出してくれる人はいないし、参列して悲しんでくれる人もいない。だから、結婚しないなんて決して言うものじゃない」

結婚しなさい、という彼女に、結婚できるかどうかなんてわからない、と私が答えるたびに、祖母はこう言って繰り返し繰り返し、何度も厳しく諭した。

ばあちゃん、ホントあなたの言うとおり! この世の中、弟すらあてにはなりません。彼女もいないというのに、退院に寝坊して来ない馬鹿者です。

父も母も体がガタガタ、慢性のアレルギー性鼻炎と気管支喘息(父)と転落による各種外傷&頭蓋骨陥没骨折&脳挫傷の後遺症(母)にて全く頼りにならず、もうダメ。

そうなったら、私は一体誰に頼ればいいというのか。それはもう、そういう人材を発掘し育成するしかない。

両親より頼りになって、できれば私より頼りになって、弟よりも私の存在を重要視してくれる誰か、あるいは誰かたちを。

……と、いうわけで。

くっそー、こうなったら意地でも嫁いでやる!!!!!

今度私が入院する時、準備するのは私の夫だ! 自分の入院だけど、私はこれっぽっちも、タオル1枚、準備してやんない! タオルも着替えも箸も枕も、全部そいつが紙袋に詰めてあたふたしながら病院に持ってくればいいんだっ!!!

治療法にしたって、私の代わりにそいつが聞いてへこんでればいい! 抗生物質だの、栄養点滴だの、私は一切関知しない! 私がやってやるのは、そいつの顔を終始信じきった目で見つめ、看護婦さんに点滴針を刺されながら、心配そうに見ているそいつへ向かって

「いたっ!……あ、でも大丈夫。」

とかって、気丈っぽくにこにこする程度のことだからねっ神様!!

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だめだこりゃ……私、いつになく荒れてるなぁおい…

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つまりは、それだけ辛い、ヘヴィな体験だった、ということです。自分の将来をシビアに見つめる苦しい時間だったということで。

かといって、育成する候補者は全く見つからないんですねこれが。……困った……

主治医のF先生(50代後半・男性)が、私をはじめに診察して入院を告げる時の私と先生の会話。

先生「入院だねえ、一週間」

私「あのう先生、私の両親は体が弱いので、言うと心配してこっち来ちゃうでしょうけど、体が持たなくてやばそうなんです。なので両親には言わないでください。妹と弟がいますので、連絡して東京にいる弟にいろいろ頼むと思いますので」

先生「で、他には」

私「他? あ、会社の上司に知らせると思いますが…」

先生「いやそうじゃなくて、他に知らせたい人はいないの? 好きな人とか」

私「好きな人!?」

(……そう来たか……)

苦しい咳の中で、私はひたすら考える。ううむ…

すいません先生、私は20代ですが甲斐性なしで、そう言った人物に心当たりがない感じです。とりあえず肉親以外では一番最初に、会社の上司(ゼブラ係長)に知らせます。

入院とは、孤独な人間のさびしさを浮き彫りにする。一番辛くて弱った時に、誰にも頼れやしない。みんな幸福になるのに忙しいし、私の問題は彼ら自身の問題には決してならない。私は自分が肉親以外(肉親でも)の誰にとっても「他人事」にしかならない人間であることを知っている。

私の問題を私と同じだけのウエイトで背負ってくれて、しかも安心して頼れる同志というのは、私にはさっぱりいない。

肺炎は治ったものの、その名残の咳をし続けながらちょっと無理して会社に復帰している今も、相変わらず誰もいないという痛い状況。その痛さを直視すると、ちょっと耐えられる自信がないので、目をそらしてみているけれど。

まっとうに精一杯頑張って生きても、収穫無し。その事実に、たまに死を思うこともあるんですが。

でもしぶとく、しぶとく、光速のまっすぐさで私は突き進むことにしなければ。でなければ大切に育ててくれた天国のじいちゃんに、顔向けできないから。

ああほんと、じーちゃんという存在があって良かった。彼が朴訥であったかい、無償の愛情たっぷりに育ててくれなかったら、私は自分の人生をスパッと投げちゃってたかもしれない。私が追いつめられても死ぬのはよそうと考えるときに、私をこの世につなぎ止めておいてくれる一番強くて太い綱は、間違いなく祖父だ。祖父の言葉や、私の世話をしてくれた優しい手。親が聞いたら泣くかな。

まあでも正直、20代後半でひとりぼっちの女の悩みなんてこんな感じだよ。深くなきゃウソだ。

20代も後半。思考回路が極端なのは百も承知。

こちとら、人生の岐路なんだよ。

03/3/8(土) pm 連打屋、忍従の時(1)
2月22日から3月3日まで、肺炎で入院していた。

夜間病院で風邪だと診断された症状は、翌日はインフルエンザと診断され、きちんとインフルエンザの薬を飲んで会社を2日も休んだ。にも関わらず、熱は一向にひかなかった。

それでも、どうしても抜けられない仕事があって出社し、外部の研修に2日間出て、一週間のうち後半の3日は終日外出した。その間中、地獄の咳と悪魔の熱がずっと続き、毎晩夕方から発熱して真夜中に40度近くを記録する毎日。

発熱している間は眠れず、息も苦しく、さすがにこれはおかしいと思ってもう一度病院に行った。

「毎晩40度近い熱が出るし、咳も苦しいし、全然熱が引かない上に体力がどんどん減ってきて、さすがにこれはいかがなものかと…」

…と言ったら、血液検査とレントゲン撮影をされた。診てくれたのは、歯切れのいい話し方で頼もしい感じの、30代くらいの女性医師。検査結果が出て再び診察室に入るなり、

「○○(連打屋の本名)さーん、ダメ、あなた肺炎、入院!!」

青みの強い紫色の口紅をつけた唇で、医師はスパッとそう言った。

「ええっ…入院…」

「可哀想だけど…入院した方がいいわね」

そこで医師は後ろの看護婦に声をかけた。

「ねえ、F先生いる? そうそう、この患者さん、F先生に担当してもらいましょう」

そこで、なぜか主治医が交替になる。出てきたのは50代後半くらいの年輩の男性医師。私の父よりやや年上で、雰囲気は個性的だが温厚そうだった。

その先生の指示で、CTやらレントゲンやら心電図やら、検査のオンパレードを経て私は入院した。といっても何の準備もしないで来てしまったので、2時間ほど時間をもらい、フラフラする体で下着を買ったり食器を買ったりして、自分で準備をして入院した。

1人で入院するのはみじめだった。だが私の両親は体がガタガタなので、両親に言うわけにはいかない。言ってこっちに両親が来たら、私は心配で夜も眠れなくなると思ったのである。

弟に連絡して、どうしても頼まなければいけないときは弟に頼むことにして、10日ほど入院。4人部屋で、同室はみな大正生まれのおばあちゃんだった。

何とか症状が回復し、3月3日に退院。退院は弟が来てくれるはずだったのに、何と弟は寝坊し、来なかった。結局私は最後の点滴が終わった後即座に荷物をまとめて、まだ咳のおさまらない体で、またも1人で退院した。

3日間髪を洗っていなかったので頭がべたべたし、ふらふらしながらタクシーを呼び、散らかりきったアパートに帰った。弟が追加で荷物を病院から持ってきてくれ、すぐに帰っていった。これから1人でどうやって食事を作ろう、と途方に暮れて、とりあえずお風呂に入ってベッドに入った時、さすがにこれは1人では無理だと思った。

そこで仕方なく実家に連絡し、母に来てもらった。母はその日のうちに埼玉に住んでいる伯母にも連絡したため、翌日は母が来る前に伯母が来て、散らかった部屋をあっという間に掃除していった。その後母も来て掃除し洗濯し、その日の夕方再び伯母が来て母と二人でなにやら大騒ぎで買い出しに行き、私に次々と食事をとらせた。

そんなこんなで2週間会社を休み、次の月曜から復帰する予定である。

入院中のベッドの上で、病に苦しみつつ、1人でいろんなことを考えた。…まあ、健康だとしても基本的にいつも1人で考えているんだけど。

いろいろ考えた中身は、次以降の日記で。

ご心配いただいた方、励ましてくださった方、どうもありがとうございました。

まあ、リアルの日常でも心配してくれた人はいたようで、不謹慎だが周囲の反応はなかなか興味深かった(楽しんでいる場合じゃないが)。微笑、爆笑、苦笑の周囲の人々編も次以降の日記で。

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あの世の祖父も、びっくりしたろうか。

それにしても、人生とはドラマ、私の人生はやっぱりアップダウンの激しいコメディ。もう幕は上がり、芝居は止められないわけね、じいちゃん。

だけど主演の私からは、共演者に上から誰を数えていけばいいのか、全然わからないよ。この幕の準主役は一体誰なのか、それは私が決めるものなのか…。

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前回私が柏木になると言い、それを恐ろしいほど的中させた京都のおみくじ、今度は私を大堰の明石だと言う。しかも、幸福になれるなどと…。

ってことは、これは幸福の前のどん底?

でも私には、自分で人をどん底に落としておきながら、そこへ手をさしのべる馬鹿野郎こと光源氏はいないんですが? 影すら見えないよ……ていうか、ああ、涙で前が見えないよ…

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ああもう! ということで、次回次回! 次回に続く!

 

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