1998-10-30
カメラと筆記用具を持って、大通公園を二時間ほど歩き回ってみた。大通公園には彫刻がいくつかあることは知っていたが、通りすがりにちらっと見るだけで、どのようなものがどれくらいあるかについては全く知らず、いずれ調べてみようと思っていた。結果は?・・・予想外の収穫だった!
とにかく、美術館にあるような彫刻作品を思う存分間近で見ることができる。設置場所によっては触ってみることもできる。まあ、あまり執拗に触っているとアヤシイ人と思われてしまうのでおすすめしないが。
また、これらの彫刻は、様々な人達がそれぞれの思いを込めて設置したのだと言うことも分かった。例えば、「牧童」と題された作品の銘板には、「牛乳百萬石突破記念」と書かれていた。設置者は北海道酪農関係者一同とある。この彫刻は、その人達の思いを受けとめ、そして同時に、その思いを声高に主張するのではなく、さり気なく公園に在って見る人の気持ちを和ませている。
また、彫刻以外にも、公園の機能と景観を支えている様々な鋳物があることが分かった。「ベンソンの水飲」のような準彫刻作品からベンチの支えになっている鋳物まで・・・。このなかで特に気に入ったのが雪の文様が彫られたマンホールの蓋で、石畳と実によくマッチしている(「鋳物(いもの)ってなに?」のコーナーで是非見られたし)。
最後に、気懸かりなことが一つ。
まずは、これを見ていただきたい。
ブロンズ彫刻の表面に白っぽいすじが見える。特に顔のすじは、まるで雨に打たれながら涙を流しているようだ。言うまでもなく、これは設置時にあったものではなく、後からついたものだ。このようなすじは、「アシッドライン」(Acid Line)と呼ばれる。その原因は、酸性雨だ。
「酸性雨」というのは,工場や自動車から排出された二酸化硫黄や窒素酸化物が,大気中や雲の中で酸化され、硫酸や硝酸として地上へ再び降ってくる現象で、一般的にはpH5.6以下の雨のことを言うそうだ。
ブロンズ像のアシッドラインは、雨や大気中の硫黄酸化物によって塩基性硫酸銅が生成することによるものだ。また、酸性雨は大理石やコンクリートにとっては、まさに「天敵」だ。
欧米では、このような建造物や文化財の急速な劣化の他にも、湖沼の酸性化による魚類の死滅、森林被害といった酸性雨による被害が既に大きな社会問題になっている。・・・
・・・私には、この彫刻「開拓母の像」が北海道の大地にも危機が迫っていることを警告しているように感じられてならない。
1998-10-15
先日の北海道新聞の日曜版(1998年10月11日付)に興味深い記事が載っていた。「匠の里」という連載の41番目にあたる「木彫り熊−渡島管内八雲町」と題された記事である。
北海道の土産といえばこの木彫りの熊が思い浮かぶくらいポピュラーな民芸品だが、その手本になったのは、スイスの農民が農閑期に作っていた木彫品であったという。今回の記事で特に興味深かったのは、これが北海道に導入され、広まり、定着していった経緯である。
これには、ある一人の人物が決定的な役割を果たした。大正年間、八雲に農場を持っていた尾張徳川家19代当主・徳川義親侯爵である。彼がスイスから見本の熊を持ち帰り、農民達の副業として木彫りを奨励したのが八雲の木彫り熊の始まりである。徳川侯爵は、作品の買い上げを約束して農民達の新しい試みを助けたという。そして、大正末から昭和初期にかけて、八雲で熊彫りを学んだ農民達が作品を持って旭川などを訪れた。こうした動きが、道内各地のアイヌ民族の間で行われていた木彫りをより体系的な制作活動に発展させたのだそうだ。このあたりの影響関係については、もう少し詳しく知りたいところだ。
木彫り熊の導入の過程については、非常に詳しい記録が残されているらしい。これを基盤にして、さらに木彫り熊が道内各地に広がっていった過程をつぶさに取材すれば、おもしろい読み物になると思うのだが、誰かやらないかな。
・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、今年の夏、阿寒に行く機会があった。その時、土産物屋をいろいろ見て回ったのだが、熊を専門に彫る人はもうほとんどいないらしい。今は、フクロウが流行っていて、様々なデザインのものが置かれていた。
じつはその時、とある店で、非常に魅力的な木彫の女性像を見つけてその作者に興味を持ったのだが、・・・その話は、別の機会ということで、今回はこれでおしまい。
1998-10-11
「日曜日のピューター・クラフト」の最初の試みとして、子供達と一緒にメダル作りをやってみたのだが、その辺のことを少し。
今回、メダル作りに子供達を誘ったのは、これを通して鋳物を知ってもらおうと思ったからだ。この目標のために、4つの小課題を立てた。
まず、ピューターを例にして金属というものを知ってもらうこと。金属を言葉で説明することは難しい。本当は、いろいろな金属を子供に触らせて、そしてできれば工作することを通じて、その多様性と共通点を感じ取るようにするのが、最も良い方法だと思う。今回は、まずピューターの地金を子供達に持たせて、その重さと手触りを確認してもらった。これは、この後、金属の溶解を目の当たりにしたときの驚きの伏線となる。
次に、金属が溶けて、そして固まる様を間近で観察してもらおうと考えた。鋳型の上面を開放するようにしたのは、ピューターが固まる様子を観察できるようにする狙いもあった。手にズシリと重く、銀色に光る硬いものが、見る間に溶けていく様を見て、みんな驚きの声を上げていた。
さらに、鋳型というのはどのようなものかを理解してもらおうと考えた。これには、金属が入り込んで固まる空間を自分の手で彫るのが最も良い方法だと考えた。メダルの模様を思い浮かべて、頭のなかで凸部を凹部に変換しながらレンガを彫るのは、子供達にはかなり難しかったようだ。しかし苦心して頑張ったことは深い印象として記憶に残るだろう。
最後に、自分達の身の回りには多くの鋳物があるのだということを知ってもらおうと考えた。手元にエンジンのシリンダブロックかなんかがあればもっとよかったのだが、幸いとても良い本(石野亨「鋳物の文化史」)を図書館で見つけたので、それを使って説明することにした。
・・・・・・・・・・・・・
さて、子供達は鋳物に興味を持ってくれたかな。
子供達の作品は「ギャラリー」にあります。 え? 私の作品? 子供達を教えるのに忙殺されて作る暇がありませんでした(墜落)。
1998-10-08
最初から何ですが、法螺話です(笑)。
日本にいて狛犬(こまいぬ)のことを全く知らない人は、たぶんいないだろう。神社の門の両脇で境内に入る者を見張っている神獣の像は、日本人にはお馴染みだ。
さて、狛犬の顔とゴジラの顔をそれぞれ思い浮かべて比べてみよう。・・・どこか似ているような気がしませんか?
「最初にゴジラがデザインされたときに、この狛犬のイメージが密かに影響を及ぼしたのではないか?」。ある日、石材屋の店先で狛犬の像を見たときに、こんな思いつきが頭に浮かんだ。
初代のゴジラとは、何だったのか。人間の傲慢に対する大自然の怒り。アニミスムの傾向を色濃く残す日本人にとっては、神の怒りとも言える。だからこそ、時としてゴジラの姿にある種の崇高さを覚えて、奇妙な共感を抱くのだろう。ゴジラは、Godzillaなのだ。 そのような設定でゴジラがデザインされたとき、意識的にか、無意識的にか、神社の門を守護する神獣の姿に近づいていったということは、何となくありそうなことだ。
ゴジラがアメリカで新たにデザインされたとき、西洋のドラゴン(悪竜)のイメージを与えられ、巨大なトカゲのような姿に変わってしまった。このとき、Godzillaは狛犬の神性を失ったのだ。
日本の映画シリーズでは、ゴジラは死んでしまった。しかし、最初の映画「ゴジラ」で、古生物学者が最後につぶやいた言葉を思い出してみよう。−「あのゴジラが、最後の一匹とは思えない」。・・・そう、ゴジラはもう一匹いる。口を開けて咆吼する「阿(あ)」形のゴジラの他に、口を閉ざして唸る「吽(うん)」形のゴジラが。
あ。 「それは、ジュニアのことか?」とか、「ミニラはどうなんだ?」なんてつっこみは無しね(墜落)。
この文章の内容は、全くの思いつきで何の根拠もありません。あるいは、もしかすると、「この内容の一部が実は既に周知のことで、知らなかったのは私だけである」、ということもあるかもしれませんが・・・(そうだったら、すごいけど)。