私の文字風景2005春・2006夏
思うこと、気づいたことなどを気ままに綴る落書き帳です。 


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新聞少年 - 06.7.10 -

新聞のラジオ欄に「山田太郎」の文字を見つけ、日曜午後のFM番組を楽しみにしていた。懐かしい曲が聞けるかもしれないと心待ちにしていると、四十余年ぶりに「新聞少年」が流れた。

15の私は見ず知らずの都会で働きながら、はじけるように青春歌謡に熱中し始めた頃だった。片田舎の家族のもとから、集団就職列車に乗って都会にやってきた「金の卵」は、某社の二交代制の勤務につき、早朝から深夜まで夢中で働いていた。就職した翌年には10歳下の双子の弟たちに小学校入学用の服を買って送ったようだ。揃いの服で二人並んだ入学式の写真を見ると、当時の貧しい暮らしを思い遣る自分がいたことを今はいじらしくも思う。そんな時代がよみがえる昭和の青春歌謡が無性に懐かしいこのごろだ。

先の新聞記事で、自らの放火で母親と弟妹を失った少年は「想像はつかんかった。もう少し考えればよかった」と話したそうである。なんと悲しいことだろう。いつの時代も、親は子を子は親を思っているはずだ。豊かになりすぎた現代は、生き方もまた複雑になったのかもしれない。私の10代はただ真っすぐに前に向かって歩くしかなかった時代だった。

朝市 - 6月14日 -
写真:新ジャガ煮物
近くのJAスーパーの朝市は、開店時から毎週火曜日の午前中、新鮮な野菜や魚を店頭販売している。子育て真っ最中のころは市が開くのを待って買い出しに出かけた。安価で新鮮な野菜や果物、子どもの消費量が多かった牛乳はまとめて3、4リットルは買い込んだ。

客寄せなのか新鮮な小イワシが、確か一キロ10円で売っていた。それを目当てに魚売り場はいつも長蛇の列だった。一人で2キロ、3キロ、5キロも買う人がいて、一体どう調理するのだろうと思ったものだ。火曜日はイワシ料理の日と決めたかどうかは覚えてないが、小家族の我が家は精々500グラム程度だったと思う。やがて、目玉の小イワシは店先から姿を消していったのだった。アジやイワシの大衆魚が品薄になったと報じていたのは、もしかしたらそのころだったのかもしれない。

久しぶりにその朝市に行ってみた。活気に満ちた店先には野菜や果物そして菓子パン類が並び、生魚は店内の特設売り場に移っていた。野菜売り場には、地元産のジャガイモや玉葱、キュウリやトマトなどが置かれ、地域農家の小父さんが店番をされていた。

小粒のジャガイモを見つけ、ベーコンと新玉葱を合わせた煮物の献立が浮んだ。「簡単に皮が剥けますか?」と訊ねると「剥けますよ。今朝掘ったばかりだから」と農家の小父さん。ありがたい、さっそく一袋購入し、爪先で擦ってみると、つるりと皮が剥けた。艶よく煮上がった新ジャガのヌッタリとした食感がうれしい。主婦一年生のころ、『栄養と料理』を見ながら覚えたこの煮物は、毎年この季節になると一度は食卓に上る初夏の献立だ。

いつの間にか少量で事足りるようになった食材に年月の流れを感じつつ、幼児連れの若いお母さんで賑わう朝市を振り返ってみた。

  思い出と「のど自慢」 - 5月22日 - 
写真:茶花
あれは小学生のころだったか…。母の実家に向かう脇道を下ると、庭先に続く入り口に水瓶があり、谷からひいた水が樋先から勢いよく溢れ込んでいた。牛糞の匂いのする牛小屋には鼻輪を付けた黒牛が飼料箱に頭を突っ込み藁を食んでいた。牛が怖くて急いで通り過ぎると、長い縁側のある母の生家が広がる。

扉を開け放った広い居間には座卓が置かれ、家にはなかった大きなテレビがあって、NHK「のど自慢」を放映していた。そこにみんなで集い、伯母の振る舞う食事を待った。都会の出と聞いた伯母には田舎の人にはない華やかさがあった。テーブルに並ぶ料理は鮮やかで、そのハイカラな料理がとてもうれしく、母について行く日が楽しみだった。祖父母や伯父・伯母との会話が弾み、何故か真冬も裸のやんちゃな従兄弟が一人騒いでいたのだった。観るともなく流れているのど自慢は、歓談の飾りのようで騒音で聞えなかったテレビ画面が今も脳裏に浮んでくる。

あのころからもう何十年も忘れていた「のど自慢」を、ひょんなことから見るようになり数年が経った。
日曜日のお昼は食事を早めに済ませ、テレビの前に座りこむ。毎週全国各地、時には海外からの生中継番組は、今年で60年を迎えるそうだ。今春から22組に増えた出場者が自慢の喉を披露する。老若男女、わずか1、2分程度の持ち時間に繰り広げられる人間模様が面白い。

目いっぱい三枚目を演じ場を沸かす人、実直な人柄が見て取れる人、スター気どりで陶酔する人などなど、単身赴任や故郷を遠く離れた家族へのメッセージあり、恋人や配偶者へのメッセージあり…、矍鑠とされたご高齢の熱唱には甚だ感動させられる。

番号・曲名から判定の鉦までの凝縮されたドキュメンタリーに触れながら、時には笑い、涙して、見ているこちらも元気をもらえるひとときだ。臆することなく、素のままを表現される出演者の方々を観ながら、一つ思うことがある。人前であんなに弾ける度胸があったらどんなにいいだろうかと…。

  母の菜園 - 4月26日 - 
写真:母の手
夕餉の支度にしなびたホウレンソウの根を取りながら、母の姿を思い出した。雨の日に採ると野菜が傷むと言いながら、私が実家を発つ前日に、母の菜園で収穫していたものだ。それが今日、帰郷の荷物とともに宅急便で届いた。

庭の片隅の一坪余りの小さな畑で、母は野菜作りを楽しんでいる。帰郷時は、春先に蒔いたホウレンソウが瑞々しく育ち、片隅にはニガウリの双葉から若葉が育ち始めていた。ホウレンソウの収穫が終ると一休みさせ、梅雨明けにもう一度ホウレンソウを蒔き、秋になると大根を蒔くのだそうだ。

カボチャ、キュウリ、ナス、枝豆、ジャガイモにオクラ、ズイキなどなど、小さな菜園はいつも四季折々の野菜で賑わっていた。台所から出る生ゴミをこまめに畑に埋めて肥料にしているそうだ。狭い菜園での連作は出来が悪いらしく、近ごろは思うように育たないともらしていた。

大正生まれの母はなかなかの倹約家だ。春、野菜の薹が立つ前にと急いで収穫した水菜が乾燥野菜になっていた。食べきれず、処分するにはもったいないと、軽く湯通して日干しにしたのだそうだ。乾燥水菜には驚いたが、母が子供時代は葉野菜も乾燥して保存していたそうで、当時の記憶をたどりながら作ってみた、と笑っていた。

同じ頃収穫した高菜は、帰郷に合わせて漬物にしてくれたようで、「3月の末じゃったか風が冷てぇ日だった」と繰り返し語っていた。「もって行く?」と微笑む母の乾燥水菜も高菜漬けもありがたく宅急便に詰めこんだ。

数年前に腰を骨折してから長い時間歩き回ることが困難になり、痛みで自由にならない体が歯がゆいようだ。以前「今の楽しみは?」と問うと「花や野菜を育てること。店内を見て回ること」と語っていた母が、先日は「店を見て回ること」に代わり週に一度のデイサービスを挙げていた。老いとともに諦めが増えていくことはさびしいが、健康な暮らしに努めながら、いつも前向きに生きる姿勢は私も見習いたいと思う。

  ♪五木の子守唄♪の歌詞は? - 3月28日 - 

「疑問解決モンジロー 『五木の子守唄の歌詞は?』」という新聞記事に目が留まった。熊本県五木村の子守唄らしい。記事によると、江戸末期から昭和初期まで行われていた子守奉公の娘が、年季の明ける盆を待ち焦がれて歌った歌とある。貧しい名子の娘たちは7,8歳を過ぎると年季奉公に出されていたそうだ。あの「おしん」の姿がそれを物語るのだろう。

子供の頃、父は焼酎が入りご機嫌になるといつもこの歌を歌っていた。メロディーは、子どもにも気づくほど調子はずれだったが、体を左右に揺らしながら陽気に歌うのだった。余程何度も聞いたのだろう。今でも歌詞を覚えている。これが正当な歌詞かどうかは疑問だが、遠い記憶をたどり綴ってみた。

1. おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんど 盆がはよくりゃ はよもどる 
2. おどまかんじかんじん あん人たちゃよかしゅ よかしゅよか帯 よかきもん(着物)
3. おどんがうっちんたちゅちゃ(死んでも) 誰がにゃてくりょか 裏のまつやま 蝉が鳴く 
4. 蝉じゃごじゃんせん いもと(妹)でござる いもと泣くなよ 気にかかる 
5. おどんがうっちんたときゃ 道端 埋けろ 通る人ごち 花あげろ 
6. 花は何の花 つんつん椿 水は天から もらい水…♪  ----- と、父はこんなふうに歌っていたのだった。

  ツーショット - 3月10日 - 
写真:春の野
父が体調をくずしたころから、年に2、3度里帰りするようになり、その度に実家の庭先の決まった場所で両親の写真を撮るようになった。

「そうかそうか」と乗り気の父は、帽子を被ったり眼鏡をかけてみたりとそれなりに身なりに気づかっている。母はといえば「もったいねぇ。また撮っとや〜」と、万年姉さん被りのまま、重い腰を上げる。
右と左に突っ立った父母をファインダー越しに覗きながら、「もっと近づいて…」と促す。母の肩にさりげなくかけた父の手に母のはにかんだ笑顔が見える。長い年月を経た深い絆を感じる瞬間だ。

春、猩猩モミジの真っ赤な芽吹きを背に、また晩秋の裸のモミジを背にしながら写し続けた父母の写真を、数年前から半年分のカレンダーにして送り届けている。カレンダーは、実家の狭い茶の間の壁いっぱいになり、一部を保管したそうだ。きっと新たなスペースには、今年上半期を飾る、昨夏の父母の笑顔があるはずだ。

二人並んだ普段着の記念写真が、これからもできるだけ続くよう願いながら、来月の帰郷時もまた俄カメラマンに徹してこようと思う。