八十爺の「路傍の草」


 諸人に踏まれて生きる路傍の草 枯るることなく花の咲きたり

 『路傍の草』と著した父の自伝から、「従軍編」を抜粋して掲載しました。
 <学び舎の庭踏まざりて書く文は 間違うこともそこここにあり>と 巻末にあり、記憶も曖昧な面があるかと思いますが、
 一愚兵の体験として残しておきたいと思いました。 (2010年初夏)


八十爺の生きた道/従軍編(出征から復員まで)T                   topへ

時は昭和18年の暮、召集令状が私にも来たのである。支那事変以来戦争の続く中、ついに米国を相手に大東亜戦争が起こり、日本軍は南方面に進出して連戦連勝の後に段々と旗色も悪くなりつつあった。長期戦だなどと言っていたが、南の島々で日本軍は大損害を受けていた。そんな頃に私は招集されて、19年1月5日に佐世保の海兵団に入隊した。

嗚呼!いよいよ戦場に送られる日が来た。ここで人生の自由も終わったなと思ったが、当時は日本男子の誉として、心勇んで郷里を後にしたものである。私は学校にも出ないで山奥で炭山師として育ったから、大きな川も見たこともない。また泳ぐことも出来ない。私はもう海兵となった以上、入隊したなら海の藻屑となる事を覚悟していた。

いよいよ入隊の日が来た。昭和18年の終りにその準備をして、この世の終りの門出は、翌日19年1月1日であった。その朝、郷里を後に佐世保海兵団に出発したのである。この世に生きて帰らぬ覚悟はかたく、父母に別れを言って大勢の人達に見送られ、日の丸を振って「勝って来るぞ」のマーチで、郷里を後にした。あの日は忘れる事の出来るものではない。

佐世保の駅に着くと同時に海軍の兵隊が全員を引率して、あの厳しい海兵団の兵舎に連れて行った。早速その日から身体検査が始まった。それが終わると、皆を広い練兵所に集めて厳しい規則などの訓辞が長々と続き、海軍軍人としての事を厳しく伝えられた。何もかも規則ずくめである。食事も厳しい規則で決まっている。朝起きてから夜の寝静まるまで規則ずくめで、新兵はコマねずみの如く駆け回り通しで一時も気を抜く暇などない。だから疲れて寝ると間もなく夜が明けるというように、夜の時間が短い思いであった。「立っている時は足踏みしろ」と上官に言われて、上官の命令で動くロボットのようなものである。佐世保海兵団での五日間は検査と服の寸法合わせや、何かと毎日準備に追いまくられて、やがて我々は千葉県館山海軍砲術学校に行く事になった。

その当時海兵団は毎日雪が降っていたが、1月7日頃だったと思う。寒い佐世保の駅を夜汽車で出発したのである。途中、昼は各室で勉強があり、夕方になると毎日のように、演芸会で歌を回り番で歌ったものである。決して楽しいものではない。上官の命令で、歌の出来ない者は鳥の啼き声やまた犬の吠え声もしたものである。笑いでもするものならすぐにビンタが待っていたから誰も笑う者もいない。

夜汽車は眠いものだが、命令のない限りそんな事は許されない。面白くもない演芸会が終わる頃は夜の12時頃だった。夜行軍用列車の行く沿線の家々は火も消えて深い眠りについている、そんな頃に全員眠れの命令が下る。朝から回るコマのように耐えているから、命令と同時に若い兵隊は死んだ如く眠ってしまう。そのうちに大きな声で総員起こしの号令で目覚める。その頃は山口県辺りかと思う。ちらほら家々の灯火が見えるがまだ夜は明けてはいない。

軍の用意した朝食が車窓から渡されるが、駅に着いても目的地に着くまでは下車は許されないのだ。その頃の汽車はスピードがないから佐世保から館山まで大変長い旅であった。時に空白があると演芸会である。昼も夜も勉強がない時はつまらない演芸会で、自由に車窓の景色を見る事も許されないのだ。うっかりそんな態度でいると古参兵に「貴様ぁ〜 郷里を思い出しているな」と、いきなりビンタを左右に食らう事になる。

自由束縛の旅は、二日目の夜に目的地の館山の駅に着いた。駅には軍用トラックが来て待っていたが、そのトラックに荷物のように乗せられて、着いた所が館山の砲術学校であった。とてつもない広い練兵場に全員整列させて訓示があった。真夜中頃である。一段高い所に立った偉そうなのが、厳しい目で我々を睨みつけて言った。「貴様らはここを何処かと思うか。良く聞け。地獄の一丁目、館山海軍砲術学校である。ここは外の所と違う地獄の訓練を行う。よく覚えておけ」。その声が夜の暗闇にビリビリと響き渡ったのである。もう寒さも眠気も我々の体からなくなっていった。生き地獄に来たかと思った。

そして各自は兵舎に着き、その夜は先ず仮寝の夢のみちと言うが夢など見ている時間はない。間もなく総員お起しの号令が掛かる。海軍は先ず起きる前に総員起し5分前という号令が掛かる。それが起きる心の用意である。そして5分後に総員起しの力強い号令が掛かる。これで焼き栗が弾ける如き勢いで飛び起きるのだ。夜具の始末をすると同時に兵舎前に整列して朝の点呼である。それが終わるとすぐに配食係り集合の号令で、古い兵隊に引率され放水所に駆け足で行く(放水所というのは食事の用意をする所である)。そこで配食を受け取り、駆け足で兵舎に戻り、各自が配食をテーブルに並べて、号令口調で「教班長、配食終わりました!」と班長に告げる。班長が「よし食事につけ」と号令する。先ず班長が食事を始めるのを見届けてから皆が一斉に食事を始める。

またこの食事の仕方が一風変わっているのである。食事の献立はみそ汁、おかず、飯とあるが、若い兵隊の食事法は決められている。普通 食事はみそ汁を一口吸って飯をであるが、ここではそれは許されない。先ず汁の中に飯を打ち込んでそれを箸で掻き混ぜて一気に胃袋に流し込むのである。その時まだ班長は半分も食ってはいない。班長の食事が終わるのを待って、一気に食器を片づける。この法を一つ間違っても、古い兵隊からビンタを食らうことになる。だから食事時に美味しいも何もあったものではない。一気に胃袋へ流し込んでいく。味も何も分かるものではない。燃料タンクに燃料の補給をしたようなものである。全くに新兵時代がどんなものか分かると思う。

拙著を読んでもらった人は新兵さん達の苦しい環境を想像してみてほしい。全く戦争中の兵隊はロボットである。新兵はまだ組み立ての終わってないロボットで、古兵は組み立て完了ロボットかな。死して護国の神となると言うが、このような神が居て今の平和があるのかも? それを思うと生き残った吾は恥ずかしい。

さてこの日から館山砲術学校での厳しい猛訓練が開始されるが、立山の冬は寒い。雪の降らない日はなく、常時50センチは積もっている。その中で、汗と泥にまみれての毎日である。そんな暮らしの新兵達の事、自然と不潔となり、体中にシラミがわき始める。体中が痒くてもうたまらない。新兵時代はシラミがわくという事を聞いていたが何とも嫌なものである。シャツを脱いで見ると、縫い目に白い裸の虫がもうウヨウヨしている。はじめはゾーッとしたものだ。しかし何事も慣れてくるともうそれほど気にはならなくなるが、痒いことには変わりはない。

私達の小隊長は厳しい事を言うわりには面白い人で、厳しい訓練をした後で、日照りの良い山陰に集めて、「オイ、小休止だ。今から皆裸になってシラミ取りを始めろ」と言って、全員を裸にしてシラミ取りをしたものである。一番シラミの集結地はフンドシである。又隊長が「オイ、フンドシも取れ」と命令して、皆丸裸である。暖かい山陰の日当たりで、誰が見る訳でもない、居るのは我々新兵と隊長の外に、時に空を回るトンビがいるくらいだから何も恥ずる事はない。ゴロキン ゴロゴロ、転ばしてシラミ取り訓練である。かわいそうに大切坊主もシラミの一斉攻撃を受けて小さく縮み上がっている。見るも無残と言うほかない。それに引き替え、ここを攻めたシラミは大きく丸々と太っている。このまま生かしていたら根元から食いちぎられることになっていたかも知れない。あ〜!人生の行く道は厳しいものである。雨にもめげず、風にもめげず、又シラミにもめげずと、限りない苦難の道がある。

この館山砲術学校で訓練される事3ヵ月。いよいよ前線へ行く時が来た。横須賀軍港で兵器弾薬を積み込み、呉軍港に集結して一路南方へと出港した。時は昭和19年3月の末、まだ春とは言っても呉軍港は寒い風が吹いていた。敵国の諜報を恐れて、ある夜遅く深夜に紛れ呉軍港を立ち日本海を南下した。夜が白々と明けて見ると、一隻で出港したはずの我らの輸送船は大きな船団となっていた。深夜の内に方々から集まって来たのであろう。無灯火の航路であるから普通では分からない。我が部隊を乗せた輸送船と他の部隊の乗った多くの輸送船は強豪な軍艦に守られていたのである。戦艦、巡洋艦、航空母艦や、又足の速い駆逐艦そして潜水艦など、母艦より飛び立つ戦闘機が船団の回りをぐるぐる回りながら、鉛のような海を南下して行ったのである。頃は軍国時代の真っ只中、23才の頃だった。

堂々たる船団は間もなく台湾海峡を通過して暖かい南国へ日増しに近づき、カムラン湾に一夜停泊した。その後、外国の海岸線を眺めながら南下して行った。船団が湾内に停泊する度に、現地人が小舟を漕いで物売りに集まって来た。初めて見る彼らは、色は黒く、目ばかりパチパチさせていた。バナナや現地の果物などを売りに来るのである。大きい船の周りにアリのように集まって、片言で物を売るのである。物売りの現地人に、長いロープに金を付けて下げてやると、そのロープに品物を括り付けて、オーケーと手を振るのである。古い兵隊も現地人と話の出来る者はいない。手真似で自分の好みを上から言うと、それをロープに付けてくれる。その頃の日本にはバナナなどなかったから本当に珍しく思った。カムラン湾の思い出は私の頭から一生消えない。

さて船団はマレー半島を右に見つつ、異常に暑い南国の太陽を浴びながら始めて見るシンガポールに着いた。当時その湾内には日本軍の攻撃によって沈められた大小の船の帆柱が林立していたが、それは全く棲ざましい物であった。そんな帆柱を横に見ながら港に深く入って行ったことを今も忘れない。

シンガポールは赤道直下だある。常夏の国で、その暑さは日本の夏の暑さとは比べ物にならない暑さで、アスファルトの舗装道路が溶けるくらいである。新しく舗装された所は溶けて歩くと靴の裏に粘りつくところもあった。町に入ると外国特有の建物があって、その壁という壁は至る所に砲撃の跡が生々しく残っていたが、現住民はもう何事もなかった物の如く日本の兵隊を相手に盛んに商売をやっていた。大きな街に豊富に品物が売り出されている。その頃の日本の本土は食糧も少なくなっていたが、シンガポールではそんな暗い影はなく、全線全勝 日本の行くところに敵なしと言う感じさえしたのだった。

シンガポールを出てスラバヤの街に行ったが、ここは大きな建物が立ち並び、盛んな商業の街であった。やはり攻撃された跡は高い建物に多く残されていた。シンガポールとスラバヤの街に五日間滞在して各部隊は別れ、私達の部隊はモルッカ諸島の小さな島・アンボンに着いた。この小島に我が110分隊は荷揚げをした。アンボンの港に輸送船を横付けにして、昼も夜も休む事無く約1週間ぐらい荷揚げ作業が続いた。それが終わると我らの乗って来た船は日本へと帰って行った。

我が部隊はここより小型船で目的地のセラム島に出港して行った。武器弾薬食糧を持ってセラム島のブラ精揖油所の警備に当たる。それが私達の初めからの目的で、この精油所を守る日本軍の捨て駒的運命が我々に当てられていたのである。将棋で言うなれば敵に食わせる歩の運命である。恐らく生きて帰れる事などはない捨て駒の運命だったと思う。

大きな重油タンクが立ち並んでいるだけで家などなく、寂しく荒れた原野で、近くに現住民の家すらない。ニューギニアに近い小島であった。ブラに上陸とともに、夜も昼も陣地構築が1ヵ月ほど続いたと思う。私は寒い館山で引いた風が元で内地を出る頃から苦しんでいたが、ブラに上陸と同時にマラリヤに罹り、風邪の咳で気管支炎となり野戦病院に入院した。毎日病床で情けない思いをする日々だった。

戦友達が陣地作業で汗と泥に汚れつつも見舞いに来てくれたが、治る事のないマラリヤの熱は時には40度も上がり、気管支炎の咳で毎日ただ苦しくなるばかりだった。そんな夕方、皆が夕食する頃だった。ドドンという砲撃音が聞こえた。敵襲だ、と言う見張りの声。見るとブラの精油所の沖に敵潜水艦が浮き上がり、重油タンクを目標に砲撃し始めたのである。我が部隊には空から来る防空が目的とした陣故に海から来るのに相手する水平砲がない。敵潜は重油タンクを全滅させて悠々と立ち去ったのである。この時私達新兵は初めて敵の砲撃を目前に見た。燃える重油は夜空を焦がした。僅かの時間に敵は重油タンクを消して行ったが、重油はその夜も燃え続けたのである。

その後は何事もなかった。私の病気は治る事無く、ついにアンボンの海軍病院に送られる事になる。ある深夜、小舟に乗って後方の病院にとブラの港を出た。戦友達が「早く良くなって又来いよ」と言って、ブラの港で別れた。私は只一人で舟を運転する人に連れられたのだ。しかし共に死を覚悟した友と別れてゆくことは寂しい思いがしたものだった。そして翌朝アンボンの港に着いたが、思えば3ヵ月程前に此の港からブラ出港したものである。大勢の戦友と別れて、今は唯一人冷たい岸壁に上陸したのだ。それからアンボンの海軍病院にトラックで行った。ブラの野戦病院と違って此処の病院は大きい病院であった。その頃アンボンは雨季であったので、毎日夕立のように雨が降っていた。

この病院で治療を受けていたある日、ブラから戦友が送られて入院してきた。行ってみると友は負傷して送られて来たと言う。敵の空襲で大きな怪我をしていた。何人かが戦死もしたと言う。私と仲の良かった戦友は戦死したと聞いた。あれからはブラは空襲が激しくなって、今はもう何もなくなったと言うのである。そしてこのアンボンも敵の空襲は激しくなり、海軍病院は跡形もなく爆撃されたのである。

そして病院は山の谷間に移動した。山の谷間の山から山に穴を堀り通して、病院はその穴の中である。この穴倉でどれだけ病院生活を送っただろうか。治らぬままに私はセレベス島の海軍病院に送られる事になった。が、私にとってはこれが大変な事になるのである。

アンボンの雨の季節も終り、毎日暑い太陽が照り続いていた。ある夕方、マカッサル海軍病院へ行くためにアンボンの港に集まり、船に乗り込むと言う時に敵機来襲のサイレンが鳴り、間もなく港の上空に敵のグラマンが姿を見せて来た。同時に港を守る警備隊の機銃や高角砲が敵機に対し攻撃を開始する。敵機は港の外回りに爆弾を落として飛び去って行ったのである。敵はアンボンから出港する船を攻撃する事が目的のようである。我が軍の砲撃で一時は退散したが何時何処で攻撃されるか分からない。

深夜になり、闇にまぎれてアンボンの港を出港したがマカッサルの海軍病院に着くのは明日の朝方ということである。そんな長い時間を無事に航海できるかは保障出来ぬかも分からぬまま、小形の鉄船は南海の洋上をセレベス島にあるマカツサル海軍病院に向かって行った。この船に乗り込んでいるのは皆患者で、船関係者以外は警備兵が乗っているだけである。元気の良い患者は上甲板に上がって冷たい風に吹かれていたが、私はそんな元気はなくて舟底の寝室に寝ているばかりであった。

出港して何時間経っていただろうか、真夜中は過ぎていたと思う頃である。上甲板の見張り員が、敵機来襲という甲高い声がした。やがて敵機の爆音が聞こえて、段々と近づいて来る。もう船の上空かと思う頃に上甲板にある機銃がガガーツと攻撃を開始した、と同時であった。凄まじい轟音と共に青白い火花が船内に散り黒い鉄の船は真っ二つに裂けた。敵機は銃撃より早く爆弾を落としたのである。私は高く積んである米の俵の横に寝ていたので、爆風と共に米俵の下敷きとなり無傷で助かった。皆は敵機来襲の知らせと共に上甲板に我先に駆け上がって行ったが、私はこの無防備の小さい船に爆弾が落とされたなら何処にいても助かる事はないと思い、とっさに死を覚悟して、目を閉じながら身動きもしないで寝ていたが、凄ましい音と共に上甲板も何も飛び散り、重たい物の下敷きになったのである。

気がついてみると、体に痛む所がない。手足を動かしてみるが別に痛む気がしない。あ〜!助かったか?と思ったが、重い物の下敷きで立ち上がる事も出来ない。頭の上の物を取り去り、見ると船の中は火の海であった。このまま居たら焼け死ぬと思い、満身の力でどうにか下敷きから立ち上がった。早く此の場から脱出しなければ、もう船は沈みつつあった。私は泳げない、今度こそ助かる見込みはない。何か浮いておれる物をと探していると、醤油の樽が目についたのである。それを持って沈み行く船を後に脱出したが、海に入って見ると多くの人が浮いていた。中には手のない者や足もない者が必死に泳いでいた。敵の落とした照明弾が深夜の海を昼間のように照らしていた。また船の火柱などで明るく照らされたものである。

間もなく船は大爆発を起して沈んで行った。同時に何も見えない真っ暗の海になった。後は何事もなかったかのように静かになり、波間に、助かった者同志の呼び合う声が時々聞こえていた。爆撃には助かったが、辺りには島もない海原である。助かった者達の話ではメナード沖だとか言っていた。海に入った時は寒いとは思わなかったが、だんだん体が冷えてきて、歯の根も合わないように寒くなってきた。早く夜の明ける事を願った。助かった者同志、声を出し合って夜明けを待ったものである。やがて白々と明けて朝日が昇ってくる。

 ----- 敵の爆撃でメナード沖の海で患者を乗せた小型船が沈められ、多くの患者の内僅かな者だけが助かった。闇の海に浮流物に身を委ねて、夜明けを待つ所までを(第一部で)記したのである。昼は暑くても南国の海の中は夜は冷たいのである。それに替わり真昼の太陽が激しい為に特別の暑さである。-----

昨夜の12時頃に船は沈められ、以来の漂流である。何回となく潮水を飲んでいる。それに対し一滴の水も口にしていないのだ。口の中はカラカラで、喉がひりひりするように痛い。それに激しい太陽の熱でもう声も出なかった。皆が死んだ者のように波間に浮いていた。塩の流れに身を任せているだけである。すると微かにドラの音が聞こえた。何か夢のようにも思えたが、そのうちにはっきりドラの音だという事がわかった。船が来る。日本のものか敵のものか、それはまだはっきりと分からないが。もし敵の船だとしたら、助かったとしてももう此の世の終りである。

波間に黒い船が近づいて来るのが見えて来た。友軍か、敵か、ブーッと汽笛を鳴らして大きくなり、船は近づく。黒い船体は駆逐艇のようである。我々の周りを遠く回り始めたが、そのときマストにひらめく旗? 日の丸だ! 同時に今まで静かに息を殺していた者達が皆大声で助けを求めて呼び合った。やがて船から小さいボートが降ろされて我々に近づき、一人一人を引き上げ、助けてくれた。私もボートに乗せられて本船へと運ばれて駆逐艇の甲板に引き上げられた。その時はじめて、あ〜助かったなあ〜と思ったのだ。

鉄の甲板の上であったが安心と同時に気が緩んだのである。何かソファーの上にでも寝ているようにやわらかく思った。苦味のある飲み物を飲まされたが、渇き切った喉に心持よく染み入っていったが、その後はどうなったか何も分からず、気がついた時はマカッサルの海軍病院の真っ白いベットの上であった。助けられた安心感と長時間の漂流による疲労とで仮死状態だったのだろうと思う。

700余人乗っていて、僅か15人くらいが助かったという事を聞いた。すし詰めの小さい船に、一挙に爆弾が2個も命中して大破したそうである。船は二つに割れて沈み、その後約一日海に漂流していて、激しい怪我をした者は皆が海の藻屑となったのだある。
写真:八十爺(2008.04.25)
続きは 従軍編(出征から復員まで)U

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生還を喜び切れぬ思いかな 戦いて逝きし友らもありて
敗戦の時は異国の島にあり 玉砕の日を思いしもある
セレベスの沖で終わりし命ぞと 思えば安し今に死すとも

幾度か死線に立つも生残り八十路の坂を今登るかな
早き瀬を流るる如き人の世ぞ 何時ともなきに老いたりしかな
メナードの町で初めてブランデーを 呑みて酔いたる若き日もあり

忘れじは人里もなき山奥に 炭焼きて居た少年の頃か

写真は2008年春、庭先で花育てを楽しんでいました。

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