八十爺の「路傍の草」


 諸人に踏まれて生きる路傍の草 枯るることなく花の咲きたり


八十爺の生きた道/従軍編(出征から復員まで)U                   topへ

セレベスのマカッサル市の海軍病院は大きな病院で、日本の看護婦もいた。日本を出てから日本女性を見たのはここで初めてで、何かとても懐かしい思いがしたものだった。病院内の清掃などは現地人がしていた。彼らは通いで来るので、市販の菓子などを持って来ては内緒で患者に売っていた。私もそれをよく買って食べていたが、秘密に買って食べる味は特別良いものであった。アンボンの病院と違って食べ物も良いし、また色々と原住民との取引ができて、内地を出て以来の、いや軍隊に入って以来の天国のように思えたところだった。

が、そこには2ヶ月ぐらいで、私はマカッサル市から山の奥にあるマリノ療養所に送られた。その療養所は季候の良い山間部で、広い草原と広い湖のある静かな所であった。季節も日本の四月頃を思わすような気温で、軍人と工員とが一緒に療養していた。上官と兵隊との区別もなく、地方の療養所といった感じで、全く開放的な療養生活であった。看護兵一人、主計兵長一人が居て、療養所の面倒を見ていた。

その建物の建材は竹材ばかりで出来ていて、下が食糧庫になり、二階が病室という作りである。風通しは良いし、本当に居心地の良い療養所であった。朝の点呼が終わるとそれぞれが自分の好きな事をするという毎日である。マージャン、花札、将棋、五目並べ、その他の娯楽が用意されていた。自由に各自が好きな物で遊びつつ養生するという気ままな療養所だったのである。湖に行って魚釣りもできた。湖水には高い涼み台が作ってあって多くの水牛がいた。毎日何十頭もの水牛が首まで沈んでいて、そこには鯉や鮒などが沢山いた。水牛は草を食っていない時は何時も水の中に首まで沈んでいて、変わった牛だな〜と思ったものだった。

時は昭和二十年の二月頃だったと思うが、はっきりと記憶にない。ある時この療養所に慰問団が来た事がある。今も歌手であるあの懐かしい藤山一郎氏であった。原住民の女性を引き連れて、湖水の涼み台で私達を歌で慰めてくれた事を今も決して忘れていない。小柄な人だったことをよく覚えている。日本から歌手が来るというので朝から大変な騒ぎをしたものだった。

そんなマリノ療養所の生活も終る時が来た。日本の戦局は日増しに悪くなり、軽症の患者は戦場に復帰するようにという時が来た。動けるものは本隊に帰り軍務に着くようとのことで、病気は良くなっていなくても各自の本隊に帰らなくてはならぬ事態となったのである。その頃に○○(判読不明)はアッツ島で、南海ではサイパン島で、敵の攻撃に絶えられず、日本軍は玉砕という名の全滅を余儀なくされていた。

私達にも本隊に戻り善戦する日が来たのである。直ちに各自が療養所より本病院に帰る事となったが、私は本病院での診察の結果まだ治らぬと言うものの、退院するよう告げられて、マカッサル市の水警隊に仮入隊し、本隊に行く船便を待つ身となった。

水警隊に入隊してからは日曜日は外出も許された。休日毎に私は、マカッサルの町を見物して、売店で珍しい物や必需品を買い求めた。長くこの町に居る事は出来ない。船便があれば明日にも本隊に帰る事になる。私の本隊はまだセラム島のブラにいるものと思う。寂しい原野のブラには何もない、出来る限り必要な物を持って行きたいと思ったものである。病院生活から厳しい軍隊への生活は体にこたえたが楽しい外出があった。

戦局は日増しに悪くなり、早く本隊に帰りたい思いばかりの毎日だった。ある日、本隊に行く便があるという事で、それに便乗して先ずアンボンまで行く事になる。アンボンはマカッサルに入院する前に居た海軍病院がある所だが、今はもう焼け野原となっている。便乗する船は駆逐艇であった。この船は特別足の速い船だから私は安心だと思った。ある深夜にマカッサルの港を出港して、翌朝目的地のアンボン港に着いたのである。

多くの便乗者が居たが110分隊の者は私一人だった。各自は本隊から迎えのものが来ていて「オー、帰って来たか」と手を振って迎え、トラックに乗せて本隊に連れ帰って行った。しかし私に言葉をかけてくれる者は誰一人いなかった。アンボンで治療を受けていた戦友の負傷した連中はどうしたのだろうか。誰も知った者のいない私が呆然としていると、上等下士官と思う人が、田原兵長かと近づいて来たので、私は「そうです」と答えて挙手の礼をしたのである。「おれは水警の者だ。お前の本隊に行けるまで水警に仮入隊しておれ。今から水警に連れて行く」と言って歩き出した。私は荷物を持って下士官の後に従っていった。その途中で私の本隊の事など聞いてみたがそんな事など知らないようであった。あ〜また仮入隊か…と思いながら、マカッサルの水警で貰った衣納袋を背負って山路を登って行った。

何とアンボンの水警は山から山を掘り通した穴倉である。それもそのはず海岸に兵舎など作れば直ちに敵の爆弾の目標になるばかりだ。山から山にトンネルを掘った要塞である。私はこの要塞化した水警で、仮入隊の生活を送る日がきたのである。しかし誰一人知る戦友がいるでもない軍隊で、戦友というものは一緒に育った兄弟のようなものである。他の隊に入るという事は他人の家にお世話になるようなものだ。嫌な事を言われたり、階級に関係なく使われる事だ。マカッサルの仮入隊は病院で知り合った者などが居たが、ここでは自分唯一人だけで、周りは皆見た事のない人達ばかりで、何につけても不利であった。日曜日は外出はできたが、私を誘うものは一人も居ない。また外出しても町もない。アンボンの町は焼け野原である。ただ外に出て散歩するくらいだ。それでも勤務から開放されて自由になるという事は人間にとって楽しいものだ。

そんな開放的な外出が何度かあったある日、アンボンの港に行って青い海を見ていた。爆撃で壊されたコンクリートに腰掛けて、本隊の事や戦友の事等など過ぎ去った事を、ただ無心に呆然と海を眺めて考えていた。すると「オイ田原じゃないか?」と言う声がした。こんな所で私の名を呼ぶとは誰だろうと思いながら声のする方を見ると、何とそこには、あの懐かしい私達の部隊の川口専任下士官が一人、ニコニコ笑いながら近寄ってきているのである。私は何か夢を見ているように思えた。と言うのは110分隊はアンボンに居ないと水警で聞かされていたからである。やはり、ブラから110分隊は引き揚げて来ていたのか。

川口下士官は、今はブラから引き上げてアンボンの奥の水上機の基地ラテーリに居ると言う事で、早速、川口下士官は水警に行って私を受けだして、ラテーリの本隊に連れて帰ってくれ、久しぶりに戦友達に逢う事が出来た。ブラの港を出てアンボンの病院へ、それからマカッサルの病院へと送られて、病院と仮入隊生活で、8ヵ月余り戦友と会っていないのである。本隊に帰ると話は山ほどある。その後の事について色々と聞かされた。ブラでは多くの戦友が戦死した事、私が入院後は大変な事があったという事などを聞いた。私がマカッサル病院に送られる途中に船が爆撃で沈められた事なども、皆戦友は知ったいた。「お前は良く助かったもんだな」と不思議がっていた。それは私が泳げない事と、ほとんど全滅したなかで命拾いをした私を不思議がってのことである。

頃は昭和20年の真夏の頃だ。もう前線には食糧というものはなくて、毎日農耕によりサツマイモなどを作って自活をしていた。毎日その作業ばかりであったが、ラテリーの水上基地には時折、水上機が来ていた。それは全く淋しいもので、昼は農耕作業し、夜は切り込み隊の訓練をするのが当時の日課であった。日本の当時の状態はもう追い詰められていた。方々の前線基地は玉砕して行った。もちろんここアンボンも長からず玉砕のための切り込み訓練をしていたのである。<生きて捕虜の屈辱を受けるより、死して護国の神となれ> これが日本の大和魂だと軍人は教育されていたのである。

昭和20年8月の或る日、アンボンの沖に敵の艦隊の近づきつつあるとの情報が入ってきた。今に砲撃が開始されて、我々ら玉砕の時ぞ来たりと覚悟も新たに色めき立ったのである。皆、死は鴻毛よりも軽しと言う日本軍人に、玉砕は武人の誉れと思い何の悔いなく華と散る。そんな覚悟に燃えていた。しかし敵艦は港の沖に姿を現したものの砲撃するでもなく、又上陸する様子もなく、何か異常に静かであった。それに白旗を揚げているというのである。白旗を揚げるという事は日本軍でいうと降参の時だけである。敵が降伏するはずもなく、不思議な出来事に皆が呆然としていたのだが、そのうちに事が判明したのである。

それは前線の兵士の思ってもいない事であった。日本国の無条件降伏という事だった。天皇自らの勅旨により、抵抗する事無く無条件降伏せよと、前線の兵士に伝えられたと言う。敵が上陸してくれば玉砕すると、覚悟は死するのみと心に決めていた。私達は全く力も何も抜けていったものである。アッツ島やサイパン島の日本軍のように勇戦し、玉砕せんものと日頃は訓練に訓練を重ねていたのである。それが戦う事無く無条件降伏に納得できない者がどれ程多くいた事だろう。

兵士は魂を抜かれた如く、全ての自信を失って行った。直ちにアメリカ軍が上陸して我々は捕虜になる身だとと思ったが、アメリカ兵は我々に直接会う事もなく、また捕虜としての苦しい思いもなかった。が、アンボン島内に居る事は出来なくなり、どうにか出来た農耕地をそのままに、近くの島に島流し同然に追い出される事になったのだった。ひと月分ぐらいの食糧と、他にイモ蔓や種物などと、農耕用具を船に積んで、山ばかりの島に移動したのである。現地人が何人か居たが、無人島というに近いジャングルであった。そこで早速兵舎を作る者、農耕のため山林を切り開く者、何でも食糧となる物を集める者と、各作業班を決めて朝早くから一日中駆け回った。

そんな日々が3ヶ月も過ぎると、作付けした甘藷などが実り、日増しに自立する事が出来るようになって、どうにか此の島での生活に余裕が出来る日が来た。しかし何時になれば日本に帰れるかは全く誰にも分からない日々である。皆、早く日本に帰りたいと、お互いに思わない日はなかったのだ。その日が来るまで体を大事にして生きて行く事だと、皆同じ気持で頑張った。

戦いに敗れて異国に生きる者にとって、自国の恋しさは、寝ても覚めても忘れられるものではない。夜の月を見ては母国の空を想い、恋しい故郷の小川を、山を、沈む夕陽を見ては自国の夕空を想う。日本に帰れる日は何時かと思い巡らす事の月日は長く、無意味に過ぎていった。そんな或る日、此の島を出て一ヶ所に集結せよと言う命令があり、私達の部隊も、ある所に集結した。そこは多くの部隊が集まって農耕している広い原野であった。陸軍と海軍の大部隊が集結して農耕作業をしていた。そこで農耕しながら、連合軍の食糧補給などもあり今までと違う物が食べられた。主食は農耕で作ったカライモや現地の作物でカスビという物だったが、以前の暮らしより人間的な生活に近いものとなった。毎日暑いからフンドシし一丁、裸足に裸の農作業で、兵舎に帰る時は川にざんぶりこと飛び込んで体を洗い流して、夕食をとるという毎日である。

そんな或る日、連合軍が来るという情報があり、その日は皆兵舎に居るようにと言う事だった。これはどうなるのだろうと思っていると、現地人を兵隊にしたオランダ軍の兵士達が入って来たのである。彼らは銃に剣を着けて、我々の兵舎に入って来た。初めて見る敵兵の武装した姿である。私達は丸腰である。銃剣を持った兵士達に取り囲まれる事は気持の良いものではない。いよいよ降参という姿で両手をバンザイという事である。抵抗するとズドンかブスリかである。ところが、上官らしい兵士がニヤニヤしながら、「お前達も日本に帰るときが来ました」と片言の日本語で言った。すると今まで銃剣を持って凄んでいた兵士らが急に優しくなり、銃から剣を取って私達に握手を求めてきた。一気に緊張から開放された思いだった。

それから連合軍は収容所作りを始めた。農作業も中止になり、各部隊は決められた収容施設に収容された。収容施設の回りは有刺鉄線で囲まれて厳しく見張りがついていた。違反めいた事をする者は帰国は許さないという事だ。命令通りにするという事だが、毎日給食付きで、収容所内から自由に外出する事が出来なく、食後はゴロゴロと寝ているという毎日であった。何もする事のないそんな生活が約1ヶ月も続いた。収容施設から出て行くのは食事の配給を取りに行く時だけだが、その時は銃剣をつけた兵士が後から着いてきて、見張り台には何時も機銃が据え付けられていた。だが日本に帰れるという事は誠に嬉しい思いでいっぱいだった。その日がやがて来たのだ。

そして或る夕食時、明日の夕方日本に向けての船に乗り込む事になると知らせがあった!今度こそ帰れる時が来たぞと、その夜は嬉しさのあまり、皆で語り続け、朝まで語り明かした者もいたのである。一夜は明けて、夕方にこの島を後にして恋しい祖国へと夢中で準備である。といっても荷物があるわけでもなく、着の身着の儘で、余分な物を持つ事は許されず一寸した手荷物があるだけである。それを袋から出したり入れたりして、ただ帰れる事の嬉しさで気も漫ろである。

異国で自由を失った者が自国に帰れる嬉しさは当人でないと分からないだろう。時の経つのも何も忘れて、乗船出来るその時を一縷に待つばかりだある。その日は良く晴れた日和であった。そして日も暮れる夕方に乗船するよう命令が出されたのだ。もう胸が一杯になり涙が目に滲む思いであった。

海辺に来て見ると、黒い大きな船が、沖合に灯火を明るく照らして浮いていた。浜辺には大きな船の着く岸壁がなくて、小舟で沖の船に運んでいた。桟橋も手作りのもので出来ていた。夕方から乗り始めて全部が乗り込んだのは夜中も過ぎていたと思う。各自決まった船室に落ち着くと、オランダの将校と思われる人が来て、「貴方達はもうすぐ日本に帰れます。安心して下さい」と日本語で話してくれた。

ああ! いよいよ帰れる。もう安心であると思った。戦時中と違い途中で沈められるような心配も今はない。昭和19年春に祖国を出港する時は何時どこで海の藻屑となるかと、死を覚悟して船に乗ったものである。そして幾度か危険な海難に遭いながら、また戦いに破れて命を落とすこともなく、懐かしいあの祖国に帰れる事など夢にも思っていなかった。敵の捕虜になり労役に使われる事もなく、自国へと帰れることは運が良いと思い、船中ではただ過ぎ去って行った軍隊生活が、夢のように私の脳裏を駆けめぐるのだった。

こんな気持で心安らぐものは私だけだったのだろうか? 人生は短いもののようで、何かとてつもなく大きくて長いもののように思えた。私が生れて以来の記憶に残る、多くの悲しみや喜びはこの身に幾度回り来た事だろう。そして今は九死に一生の喜びを持って、忘れる事のできないあの懐かしい母国へ、恋しい故郷へ無事帰れる。船の中で、過ぎ去りし絵図が私の脳裏一杯に広がってくる、そんな夜であった。船は順風に乗って母国へと近づきつつある。この大海原は多くの生命の宝庫である。大海は私には恐ろしい物だが、反面、祖国に続いている事を思う時に有難いと思うものだった。命を掛けたこの海も今は楽しい希望の航海である。広い海原に島影もない。この船に乗って幾日過ぎたか、行く手に見える小さいが確かに陸地か島かである。誰かが地図を見て、四国だろうと言う。

そのうちに段々とそれと分かる。あ〜!日本だ。待ちに待った祖国の姿である。そして一夜が明けた時、船は港に入っていた。そこは和歌山県の田辺港であるという。祖国を出て以来始めて見る郷里に続く陸地である。明け方の田辺港は薄く霞んでいたが、奥地に懐かしい山が黒ずむように見えていたのだ。港は静かに、海も凪いでいた。岸壁に人の姿は見えない。岸壁からはまだ遠い沖なので、白い建物は見えても小さい物は何も見えない。船中の朝食が終り、係員から上陸の時の事や上陸後について注意があり、船は港に静かに入り岸壁に横着けになった。

港では復員者の世話をする人達が忙しく駆け回っていた。また、アメリカ軍の兵士も大勢居るようである。船が岸壁に接岸してから2時間位して一部が上陸を始め、次々と上陸して行った。南国の収容所の港を出てからの船旅は10日間ほどであった。我々が上陸すると進駐軍が、白い粉の消毒薬を、何か汚い物でも消毒するように頭から振り掛けてくれた。まるで野良犬か野良猫でも消毒するようなものである。それはあのBHCだ。体中真っ白になりながら、国元別に集合して、郷里に帰る途中のことなどについて、色々と注意がされたのである。道中は食い物も何も売っていないからここでおにぎりなどを作っていく事、色々と犯罪などもあるから行動に注意する事など、厳しく注意された。

夕方汽車が出るから、それまでに飯を炊いておにぎりを作る事と言われたが、飯を炊くにも飯盒があるでもなく、鍋などがあるわけでもない。各自が、飯を炊く鍋に代わる物をそこらで探さなければならないのだ。ある者は金だらいやヤカンの古いもの、またブリキ缶などの古いのを持ち寄って、それを潮水で洗い急いで弁当を作ったものである。私はヤカンの古いものを見つけて、それでどうにか飯が炊けたが、あまり上出来ではない。何とかおにぎりを作って、用意は出来上がったものだった。

いよいよ汽車の出発となって、皆と別れの時が来た。田辺の駅で、お互いに別れを惜しんだのである。2年余りを軍で、そして1年余りの農耕で、お互い兄弟のように生死を共にした同士である。再会を誓いあい、手を握り、遠く消え行く汽車に手を振って別れたものである。今も忘れる事はない昭和21年の夏である。私は九州へ行く汽車に乗り込んだが、同士十数人だったと思う。その頃の汽車は窓ガラスがあるのは一両もなく、日本本土も爆撃の激しかった事を物語っていた。

汽車はまず京都に着いた。長い待ち時間があったそこで、泥棒泥棒と大声で叫びながら追いかける男がいた。逃げる男は自転車に乗って走っていたのである。追いかける男は、自転車を降りてトイレで用を足して出て来たところらしく、自分の自転車に見知らぬ男が乗っていたという訳だ。さあ大変と、泥棒と叫んだがすでに遅し、そのまま泥棒君は自転車で一目散に逃げて行ったという事だ。自転車に乗った泥棒を足で追っかけても無駄と言うものの、彼は不服満々で帰っていった。聞くと一寸小用のために降りた所を取られたと言って悔やんでいたが、全くとんだ災難である。汽車に乗る前に、上官や係りの人に道中は大変危険だと言われていたが、全く油断は出来ないと思った。

復員軍人は金を持っているという事で、よく犯罪などに巻き込まれると聞いていた。私もその頃に150円の金を持っていた。今でいうと150円の金なんか誰も目にもつけないが、その頃の金では大金である。1ヵ月の生活費が5人家族で30円位で出来た時代で、約5ヶ月分の生活費である。物を買うにも買う品物もない終戦後である。私は改めて社会の恐ろしさを感じた。これは油断出来ないと心の引き締まる思いをしたものである。

汽車は駅で止まる度に多くの人達が乗り降りをした。それも窓ガラスのない窓からである。駅員が制止しても堂々とやっている。おそらく無賃の乗降であろう。以前の日本ならそんな事をする人もいなかったが、やはり敗戦の国の姿は全く無残であると思った。

そんな中、翌日夕方に宮崎に着く事が出来た。私は佐土原駅に下車した。今の広瀬であるが、妻行きの便はもう明日の朝までないと言う。それで佐土原の旅館に一泊することになったが、宿での食事は何もないという事である。ただお茶が出たくらいで、自分で持って来たかんぱんを食べながらお茶を飲んで夕食とした。そんな有様で一夜は明けたのである。

翌日は妻行きの破れバスに乗って妻町に着いた。町は私が国を出る時の様子など見る影もなかったが、記憶に残る物があり懐かしく思ったものである。それから米良行きのバスに乗り、懐かしい故郷の山河を眺めながら、目的地の二間橋に着いたのは昼頃だったと思う。そこには弟等が迎えに来ていた。それより12キロのトロ道を歩いて、我が故郷の銀鏡(シロミ)には夕方に帰り着いたのだった。

私が家を出た時と同じように、炭窯は白煙をゆらゆらと空にくすぼっていた。ああ、また元の炭焼きで生きて行く事かと思い、張り詰めて死ぬる覚悟で戦地に向かった者が生き返った喜びと、安心と、またふり出しに戻った人生の運命というものに、何ともやるせない思いと悲しみが、私の心を空しいものにしたのである。父母達は無事に生きて帰った事を喜んでくれたけれど、また元の職業で生きて行く事に手放しで喜ぶ気にはなれなかった。

あの時に死んでいたなら、最期の五分間で人生は終わっていたであろうに、同時に苦も楽も、又人生の道に悩む事も、喜ぶ事もなく終わっていただろう。人生を分析してみると、良かったとも悪かったとも判断しがたいものである。人生には、運・不運が生まれ付いているとしか思えない。しかし生きて帰ったということ事態が不思議だと思う今日この頃である。それは助かるすべのない災難が、私の身の上に二度三度降りかかったからである。自分ながら不思議に思う場面が、セレベス沖の海難である。何故無傷で助かったのであろうか。もう絶対絶命だと思い、死を覚悟して船底に寝ていた私である。あの時だけは完全に死を覚悟したものであった。それが無傷で生きて帰る日が来たのである。  

写真:八十爺(2010.02.19)            従軍編(出征から復員まで) 完.

写真:若かりし八十爺(1947.03.10)最後まで目を通していただき
ありがとうございました。


右の写真は復員して間もない頃かと思います。それから60数年、高齢の域に達した父にも認知症の兆しがみえてきました。長年、短歌を趣味としてきましたが、今年になって、心に思うことを言葉にまとめる力がなくなったと呟いておりました(写真左は'10年冬)。

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