いもじな日々

−作業記録と雑感−

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2001_01

2001-01-28
マルセル・デュシャンの年譜を作成した。

 ちなみに、デジタル複製技術時代に対応したコンセプチュアル・アート・パフォーマンスの新しい方法を思い付いた。今度、エッセイに書いてみよっと。ウシシ、久々の法螺話になりそうだ。(笑)

2001-01-27
「大ガラス」

 ゴールディング『デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁,さえも』(*1)を、ざっと読み終えた。

 なかなかの良書で、訳もこなれていて読みやすい。題名から判るように、デュシャンの「大ガラス」について詳細な検討を試みたものだが、最後の方の錬金術との関連を論じたところが特に興味深かった。菅原教夫の著書(*2)によると、既に1968年に、画商のシュヴァルツが講演でデュシャンと錬金術との関係について指摘している。一方、ゴールディングの原書の出版年は1972年であり、出版のためのタイムラグを考慮すると、ほぼ同時期と言って良いように思われる。

 菅原教夫も指摘しているように(*2)、デュシャンが何らかの形で錬金術を参照していたと考えると、非常に見通しが良くなるような気がする。

(注)

 (*1) ゴールディング、(東野芳明訳):『デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁,さえも』,(みすず書房,1981).

 (*2) 菅原教夫:『レディメイド デュシャン覚書』,(五柳書院,1998),53-61頁.

2001-01-16
デュシャン本

 東野芳明『マルセル・デュシャン』を「リブリアルテ」というWeb古書店で購入。図書館から借りた実物を見て、「あ、こりゃ手元に置いておかんとイカンな」と思い、Web検索したら、なんと見つかった。すげー便利!

 ただし、この本は、もう少し自分の考えが纏まってから、じっくり読むつもり。

2001-01-14
浜崎あゆみPV

 DVDで出ている浜崎あゆみのPVの「vogue Far away SEASONS」と「SURREAL」買う。前者と後者を見比べてみると、この間に映像表現の水準が飛躍的に上がったことがわかる。この背景には、DVDの普及やデジタル映像への関心の高まりにより、「作品」としてのPVがクローズアップされてきたこともあるのだろう。その動きは、既にvogue〜Far away〜SEASONSの三部作でも胎動として感知できるのだが。...それと、これは単なる憶測だが、浜崎あゆみ個人にとっては、椎名林檎のPVが刺激になったかもしれない。

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デュシャンと錬金術

 なんだか、デュシャンと錬金術との間には何らかの関係があるそうなのだが、...うーん、ちょっと厄介だな。錬金術というのは、「化学の前史」なんて生易しいモノではなくて、西洋思想の地下深くに張り巡らされた巨大な水脈の一つと言って良い。しかし、その複雑な象徴体系は、日本人にはなかなか理解できないような気がする。というか、表面的な知識として学ぶことはできても、意識の深いレベルでは了解できないのではないだろうか? まあ、今まで本格的に取り組んだことはないので、はっきりとは言えないのだが。

2001-01-13
ペーパーウェイト

 トップページの画像に使った鋳放しのペーパーウェイトにメタルプライマーを吹いた。この作品については、表面の金色の酸化皮膜をそのまま保存することにし、二回目に鋳造した方を磨いて仕上げることにする。

 今回初めてメタルプライマーを使ったのだが、かなり強力な皮膜を作るようだ。少し爪についてしまって透明マニキュア状態になっているのだが、少し擦ったくらいではとれそうもない。ピューターは、鉛のようなはっきりとした変色は起こさないが、一年も放っておくと鋳造直後の輝きが薄れてくる。かと言って、磨くと酸化皮膜がとれてしまう、ということで、メタルプライマーを使うことにしたのだが、なかなか良い感じ。

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[書籍]

 「prints21」 恋月姫の特集号届く。これまで製作した人形の一覧だとか、インタビューだとか、なかなか充実している。 ...ところで、恋月姫の顔写真、初めて見た。美人だね。

 図書館で、デュシャン関係の本を借りる。 東野芳明『マルセル・デュシャン』、宇佐美圭司『デュシャン』、ゴールディング『デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁,さえも』。 ...東野芳明のもう一つの本は見つからなかった。

2001-01-11
会田誠

 2001-01-07に、会田誠を引き合いに出して、「コンセプトを重視する「現代美術」というのは、いま、まともに機能しているのだろうか?」と、疑問を書いたのだが、よく考えるとかなりアホな内容だったので、自己批判して削除。

 会田誠の作品集を見ると、一応「現代美術」のお約束通り、作品ごとにそれらしい「能書き」が書かれているのだが、これがかなり怪しい。例えば、

僕は古い西洋の油絵、中でもバロック絵画見るのが好きなので、たまに自分でも油絵を描きたくなります。けれど僕はそういう時、お偉い美術史家が説く絵画の歴史的に正統な流れを考慮する必要を、ほとんど感じたことがありません。とはいえ天使を描きたいわけでもなく、それで結局こういう絵になりました。僕の考えでは、例えばベラスケスやルーベンスは、ピカソやロスコーよりも、もっと僕にとって興味深い意味においてILM(ハリウッドの特殊撮影集団)と濃い血縁関係にあります。
(会田誠作品集『孤独な惑星』、有限会社DANぼ、1999)

などととコメントされているのが、宇宙空間に出現した長いウンコを巨大な画面にリアルに描いた、その名も「スペース・ウンコ」だったりする。要するに、禁じ手無しの何でも有りで、そのあげく、「現代美術」のお約束を借りて、もっともらしく(?)言い訳をしている様に見えてしかたがない。ある意味、制度化した「現代美術」をおちょくっているかのようだ。

 というわけで、「現代美術」の主流について述べるときに、会田誠を引き合いに出した私は、血迷っていたとしか考えられません。以上。

 ...すいません。ネタです。(笑)

2001-01-08
レディメイド論

 『レディメイド デュシャン覚書』読了。共感と違和感が入り混じった感じ。

 昨日は、「絵画もレディメイドである」という節で本を閉じたのだが、...と言うのも、論旨が「ハァ?」という感じだったので、「もしかしたら本の読み疲れで頭の働きが鈍ったかもしれない」と考えたのだ。しかし、今日、改めて読み始めたら、やっぱり「ハァ?」だったので、ガックリきた。

画家はある色の絵の具をチューブからしぼりだしてパレットに置く。それをオイルで溶いて筆にのせ画布に置く。この過程で働くのはまず何色の絵の具を選ぶかということと、そして次にはカンヴァスのどこにそれを置くかという選択の意志である。このことは当のセレクトするものが、絵の具であるか、それとも日用品であるかの違いこそあれ、既製品のなかからひとつの物を選択するという点で、絵画をデュシャンのレディメイドと同じ位相でとらえる見方を可能にする。
(菅原教夫『レディメイド デュシャン覚書』(五柳書院、1998)、98頁)

 おいおい(笑)、こんな論理、「味噌も糞も、茶色の軟らかい物という点で、同じ位相で捉える見方が可能である」と言うのと同じレベルの論理じゃねーか!

 ...まあ、共感した所も結構あるので、その一部をちょっと引用しておく。

また、デュシャンをベースにした制作が、以後の美術にもたらした概念的な傾向は、美術が持つ感覚的な側面をないがしろにするきらいがあり、それは現代美術に対してわれわれが感じるもっとも大きな不満のひとつになっている。
(『レディメイド デュシャン覚書』、145-146頁)

 ...思うに、「デュシャン」というのは、一種の「劇薬」なんだ。

 実を言うと、この本で一番面白かったのは、第I章のデュシャン論ではなく。第II章におさめられたアルトー論だった。しかし、デュシャン論の方も、論旨には難があるものの、情報源という点では貴重だし、何よりも「わかる言葉」で語ってくれたのがありがたかった。

2001-01-07
引き続き書籍&芸術ネタ

 ジョルジュ・シャルボニエ『デュシャンとの対話』(みすず書房)、菅原教夫『レディメイド デュシャン覚書』(五柳書院)を購入。今、後者をざっと読んでいるところ。

 それにしても、西洋近代・現代の美術(史)というのは、「進歩」という概念に囚われすぎてはいないか? これは、もう強迫観念と言っていいレベルではないか? 「新しい」表現手法とオリジナリティとは別物だろうに。 私には、オリジナリティをも否定するポストモダンの美術も、その表面的な言説とは裏腹に、「新しい」という価値基準からは自由ではなかったように見える。 だけど、そんなもの芸術にとって本当に重要なのか?

 そして、また、思うのだが、デュシャンの作品を「思索」するのも面白いが、そのような面白さは、他にどこにでも、いくらでも転がっている。しかし、一瞬思考が停止するほどの感動を与えること、それは、「網膜的な」芸術のみが成し得ることではないのか? そして、それこそが美術というものに与えられた特権ではないのか? たとえば、ここでも恋月姫を対置するのだが、以前、ある人形関係のBBSに次のような話が投稿されていた。投稿の主(女の子)は、友達の女の子を恋月姫の人形のある人形店に連れていった。そして、その友達は、恋月姫の人形を見たとき、一瞬言葉を失い固まってしまったそうだ。 とりすました「現代美術」は、その女の子に、それだけの感動を与えられるか?

2001-01-06
ちょっと書籍and芸術ネタ

 花輪和一『ニッポン昔話』読む。この人みたいなのを圧倒的な才能と言うんだろうな。むかし、初めて花輪の作品(『新今昔物語 鵺(ぬえ)』)を読んだ時には、マジでぶっ飛んだものだ。こういうのは漫画でなければできない表現だよな。

 小学館から出ている週刊美術館の「デュシャン/マン・レイ」と「クラーナハ/グリューネヴァルト」を買ってみた。週刊雑誌の形態をとった美術全集という点では、以前、朝日新聞社から出た朝日百科「世界の美術」というのに似ているが、こちらもなかなか良くできている。 それにしても、「クラーナハ/グリューネヴァルト」の副題「ドイツの森の怪奇とエロス」は良いとして、「デュシャン/マン・レイ」の方の「ダダっ子たちの芸術遊び」というのは、何? ...まあ、どーでもいいけど。...デュシャンの項では、代表的な作品がきれいな図版で示されているし、いくつか重要な情報も知ることができた。

 具体的には、
 1.遺作「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」の水の落下照明用ガスとは、いずれも、生前の代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称、「大ガラス」)における重要な要素であったこと。
 2.遺作の主人公と同じポーズをした裸婦の絵が1947年に描かれていた。その題名は「マリア、水の落下、照明用のガス、が与えられたとせよ」であった。マリアとは、デュシャンが熱烈に愛し、結局は別れることになった女性の名であり、彼女は「人妻」だった。
 なるほど。おもしろい! マリアという女性は、ある意味では、デュシャンにとって、実体化した「花嫁」だったということか。...あと、ちょっと気になるのだが、...私はフランス語はまったく判らないのだが、「花嫁」はフランス語で"Mariee"と書くらしい。この言葉の発音って、もしかして「マリア」に似てない? もし、そうならデュシャンのことだから語呂合わせをしたくなるかもしれない。となると、1947年の絵の題名の「マリア」=「花嫁」と解することができるかも。

 それから、どーでもいいことだけど、マン・レイが撮影したデュシャンの女装写真の顔をよく見ると、ちょっと会田誠に似ているんだよね。会田誠も「女装」写真を撮っているんだが、これがセルフポートレートのヌード写真で、題名が「潮風の少女」。 おい、おい(笑)って感じ。

 それから、会田誠は、「青磁器」という題名の青磁器作品を作っているのだが、そのモチーフがもろに女性の「デリケートな部分」で、これを見た後、デュシャンの「泉」を見ると、「泉」に潜んでいたイメージがあぶり出されてきて面白い。

2001-01-05
デュシャン・リンク


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2001年1月
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