いもじな日々

−作業記録と雑感−

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2001_02

2001-02-22
Cocco 活動中止?!

 かなりショック。

2001-02-20
訃報

 バルテュス他界。

2001-02-17
金属

 机の引き出しを整理していたら、以前読んだ本(*)のメモが出てきた。ちょうど「日曜鋳物師のページ」を立ち上げる頃に読んで、感銘を受けた文章を書き写したものだ。ここに書いておけば、なくならないだろう。

金属は、木や紙ほどかんたんに加工できませんが、いったん形ができあがればこわれにくいものとなります。しかも熱に強く、ぶつけあったときには明るく、高い音がでます。もちろんそれぞれの金属に特有の輝きがあります。
少し前までは、どこの町のなかにも鍛冶屋、ブリキ屋、鋳掛屋(おもに銅製品をあつかい、なべやかまの修理をする人)、篩屋がいました。それぞれの職人たちは、店の奥で仕事をしたり、道具箱をかついで気軽に各家庭に来てくれたものです。
このように、以前は大人はもちろん、子どもでも、職人たちがどのような仕事をするのか、どのようにブリキや銅板をあつかうのかを知っていました。
現在、金属製品は、工場でつくられて、ダンボール箱につめられて出荷されます。人々は、スーパーマーケットや金物屋で、初めて製品に出会います。どのようにしてつくられるのか、知る機会はほとんどありません。そして、破損した物は、修理もされずにすてられてしまいます。製品はあふれているのに、だんだん金属は身近なものではなくなってしまったのかもしれません。最近では、金属とプラスチックの区別がよくつかない子どももいるようです。
金属は加工しにくく、人をこばむ素材です。人々は、昔から加工する方法を研究してきました。このくふうの結果は、私たちの大切な文化遺産なのです。

 (*) 藤澤英昭、藤澤保子:『あたらしい造形・美術D 金属でつくろう』、(小峰書店,1987)

2001-02-14
印象派

 「ものづくり」という視点から、美術史における印象派を見てみる。

 印象派の真に革命的であった点は、特殊な職人的技術を必要としない絵画の新しい方法論をうち立てたことにある。そして、これが、普通の市民による趣味としての絵画に道を開くことになる。日曜画家の出現だ。

 ・・・いや、単なる思い付きなんだけど(笑)。

2001-02-10
マルセル・デュシャンと機械文明

 マルセル・デュシャンの年譜に手を加えているうちに、興味深いことに気がついた。

 (1) レディ・メイドの制作(選択)は、大ガラスの制作にほぼ並行して行われている。おそらく両者は、相補的な関係にある。

 (2) 大ガラスが着想された時期(1912-1913年頃)は、大量生産を機軸にした機械文明の勃興期である(*1)。そして、大ガラスの制作が放棄された時期(1923年)は、機械文明の負の側面が明確なイメージを伴って顕在化してきた時期に対応する(*2)

(注)

 (*1) 自動車「T型フォード」のデビュー(1908年)など。マリネッティの「未来派宣言」(1909年)はこのような時代の意識を反映している。

 (*2) フリッツ・ラングの映画「メトロポリス」(1927年)。機械文明への警鐘とヒューマニズムの復権というテーマは、その後、ルネ・クレールの映画「自由を我等に」(1932年)やチャップリンの映画「モダン・タイムス」(1936年)によって、さらに明確な形で引き継がれていく。

2001-02-09
<レディ・メイド論>ノート

*問題意識の在処

 最初の疑問: 「《レディ・メイド》が美術史に記述され、既に美術の「制度」の中に組み込まれている現在、それは、芸術家にとって、ものを造らないことを正当化するための、いわば「前例」として機能しているのではないか? しかし、それは、デュシャンの真の意図に沿ったものなのか?

 ・・・例えば、芸術家が、他者の手によって制作された作品に自分の名を付して発表し、その姿勢に対して美術界の外部から批判されたとき、単に「シミュレーショニズム(*)だ」と答えれば済むというようなことは、(私にとっては)異常な事だと思えた。そして、このことは、人々の日常生活の場から「ものづくり」を奪った現代という時代の問題点を反映した象徴的な出来事ではないかと考えた。

 現代美術の知識などほとんどない素人にも関わらず、デュシャンとレディ・メイドについて検討しようと思ったのは、このような問題意識がきっかけだった。

 (*) シミュレーショニズム: 大衆芸術からの盗用を積極的に推し進めた美術運動。

<<<なんか、スッゲーかっこいいぞ。しばらくこの路線で行くか。(笑)

2001-02-03
「ものづくり」の認識論。

 たまには真面目に。

 「ものづくり」を、産業政策の視点からではなく、一人の人間として生きる上での必要条件としてみること。

 今、人々は、日常生活における「ものづくり」から引き離され、自己意識と外界とのズレを修正する有効な手段を奪われている。

 人間にとっての「世界」とは、自らの生存のための情報処理の必要から、人間が自己の内部に創りあげた外界のシミュレーション像である。そして、ここで言う「自己意識」とは、その「世界」像と、その世界の内に在るものと了解されると同時に外界に相対するものとして設定される「自己」像とである。

 このような観点から、ものづくりの過程を図式化すると以下のようになる。
 人間は、物を作ろうとするとき、作ろうとする物のイメージを思い浮かべながら、自己の外部に存在するマテリアルに自己の身体を通じて働きかけ、それを変容させる。そして、その結果をフィードバックすることにより、「世界」と「自己」とのシミュレーション像を確認し、必要に応じてそれを修正する。「ものづくり」とは、このような実践の積み重ねであり、そして、このようにして出来上がった作品は、自分にとって自己の実践の(したがって自己の存在の)直接的な証明となる。

 しかし、人間同士の関係は、このように単純ではない。個々人のシミュレーション像は各人に固有のものであり、自己のそれは他者のそれとは、厳密には一致しない。人間は、永遠に解り合えない何かを抱えながら、他者に相対するのだ。

 しかし、人間の自己形成とは、他者との関係の網の中で、そして他者との関係を通じて、「世界」像と「自己」像とを同時に析出させていくプロセスだ。自己の確立とは、なんという困難な作業だろうか。

 したがって、人間関係や価値観が混沌として定まらない外界の中で自己を形成し、維持しなければならない現代人の「自己」像は、必然的に揺らがざるをえない。そして、自分の行為に対するフィードバックが幾重にも屈折され、時に矛盾すらすることが繰り返されれば、人間の情報処理系が変調をきたして当然なのだ。

 そのような時に、「ものづくり」が重要な意味を持ってくる。「ものづくり」の過程では、自己の行為がその結果に直接的に反映されるが故に、人間は「ものづくり」を通じて、自己意識と外界との関係を修正していく手掛かりを得ることができるのだ。「癒しとしてのものづくり」とは、要するにこういうことだ。

2001-02-02
マルセル・デュシャン関連書籍

 古書店の麗文堂書店より、
 1.東野芳明『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』
 2.美術手帳 特集マルセル・デュシャン
 3.ユリイカ 特集マルセル・デュシャン
同じく、古書あしび文庫より、
 1.中牟田佳彰『増補改訂 イタリア美術鋳物』
が届いた。

 デュシャン関係の文献については、Web古書店を探しまくれば、たいていの物は見つかりそうだ。(まあ、先立つモノがなければ、指をくわえているだけなのだが。悲しいことに。) 痛恨だったのは、『イタリア美術鋳物』とともに目を付けていた蝋型鋳物の本がタッチの差で他の人に買われてしまったことだ。「本は見つけた時に買うべし」という鉄則は、よく判っていたのだが...。


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2001年2月
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