いもじな日々

−作業記録と雑感−

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2001_07

2001-07-28
「マイセン幻影」

 ビデオで「マイセン幻影」を観る。見事な構成。マイセン・コレクターの主人公の少年時代からその死までの様々なエピソードを交錯させながら、主人公の人物像を描いていく。そして、コレクションという行為の本質が自己愛に根ざしていることを露わにするラストのエピソード。

2001-07-22
「人狼 JIN-ROH」

 ビデオで「人狼 JIN-ROH」を観る。原作・脚本=押井守、監督=沖浦啓之。アニメーション作品なのだが、久々に「映画」を観たような気がする。最近のへなちょこ日本映画よりよっぽど映画らしい作品だった。

2001-07-21
「ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響」

 ベルメール関係の資料を纏めてみた。 (2003-09-13移転→)

2001-07-20
東急ハンズにて

 午後から、東急ハンズで買い物。鋳造用の耐火石膏とゴム容器を購入。ついでに粘土の棚に立ち寄ったら、ゴスロリっぽい服を着た女の子2人組がいて、熱心に粘土を物色していた。一人の女の子が下げていた手提げ袋には、発泡スチロールの大きなブロック。...以前、「人形の手作りが、限られた専門家ではない一般の人々にまで静かに拡がりつつある」と書いたことがあるが(2000-11-04)、彼女たちも人形を作ろうとしているのかもしれない。

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 丸善で、新潮美術文庫の『デュシャン』、堀佳子『生き人形 堀佳子の世界』(フーコー発行/星雲社発売,1998)、堀佳子『生き人形 2』(新風舎,1999) 購入。

 堀佳子は、『生き人形 堀佳子の世界』のあとがきで次のように書いている。

「私は人形たちに、姿の美しさよりも、「心」をあげたい、と願っています。」

 彼女は、ベルメールの作品集に触発されて人形制作を始めたという。しかし、その制作を支える根本的な部分で、ベルメールとは異なっているように思える。これは他の日本の女性作家の多くに共通している特徴だが、要するに、彼女らにとって、人形(特に少女人形)は彼女らの分身であり娘なのだ。したがって、彼女らは、「彼女らの実存」を人形に吹き込もうとする。しかし、ベルメールは違う。おそらく、他の男性作家もまた彼女らとは異なるはずだ。

2001-07-11
澁澤龍彦 『幻想の彼方へ』

 文生堂書店より『幻想の彼方へ』のハードカバー本届く。古い本だが造本や装丁が堪らなく良い。世の中には澁澤龍彦の初版本のコレクターが結構いるそうだが、その気持ちは十分理解できる。

2001-07-08
ベルメール関係の本

 ちょっと必要があって、昔読んだベルメール関連の本を、棚の奥に押し込んだダンボール箱群の中から発掘した。坂崎乙郎の『幻想芸術の世界』や『イメージの変革』。私は、『幻想芸術の世界』で初めてベルメールを知った。扉絵の表がマグリットの「アルンハイムの領土」で、裏がベルメールの「人形」になっている。これ、今見ても良い本だと思う。それから、『イメージの変革』でエゴン・シーレに夢中になったのだが、これは別の話。まあ、この2冊が見つかったのは良かったのだが、澁澤龍彦の文庫本が見つからない。何処にしまい込んだんだろ?...それとは別に、角川文庫版の『バタイユ作品集 マダム・エドワルダ』を発見。表紙絵とさし絵が金子國義のやつ。それにしても、初版発行が昭和51年2月28日で、同年8月30日にはもう三版になっている。これって結構凄いよな。

2001-07-07
「セイレーンのペーパーナイフ」の研磨

 「雪の結晶のキャンディ入れ」の制作を優先したので、ペーパーナイフやペーパーウェイトの仕上げが後回しになってしまったが、やっと手が掛けられるようになった。

 頭部の羽根については、リューターを使って羽毛状の細かい模様を付けた。体の部分は、#1000の研磨紙で磨く。  ピューターは、細かい研磨紙で丁寧に磨くと、美しいヘアラインがついて気品のある光沢が出てくる。

 研磨は、もう 楽! というか、さすがに一度「キャンディ入れ」の研磨を経験してしまうとね。(笑)

 ...それにしても、磨いているうちに本当に頭の中の雑念が抜けて空っぽになる。これがよく言われる「三昧」なのかな?

2001-07-06
ピューターの新しい入手先を見つけた

 (株)スタンダードメタル商会から、ピューター3kg届く。インゴットではなく使いやすい小塊状になっている。値段もリーズナブルだ(3300円/kg)。

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<レディ・メイド論>ノート

*これはレディ・メイドではない。 (その1): 「修正レディ・メイド」という倒錯。

 市販の手術台の上にミシンと蝙蝠傘を乗せて一体にした物は立派な創作物である。
 本来、創作物(あるいは作品)とは、作者の制作という実践によって初めて生まれた物を指すのであり、原材料が市販の既製品であるかどうかは問題にならない。例えば、木枠に張ったキャンバスを購入してきて、木枠かキャンバスの裏にサインをしただけのものは「レディ・メイド」と言えるが、キャンバスの表に絵の具の点をつけたものは、その作者の介在無しには存在できなかったものであり、もはやレディ・メイドと呼ぶべきではない。すなわち、「修正レディ・メイド」とは、いわば、定義付けの座標の原点を「レディ・メイド」という特殊な概念に無理矢理に移動させた視点から創作物を名付けた物であり、モナリザの絵を「L.H.O.O.Q」(髭を描き加えたモナリザの複製画)という仮想の原点から「髭を剃ったモナリザ」と名付けるのと同じ倒錯に陥っているといえる。

2001-07-01
Sugar Soul Live "Balance"

 中古CDでSugar Soulのライブ・アルバムを購入。二枚組!今聴いているところ。こんなアルバム出てたんだな。知らんかった。

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レディ・メイドと「泉」事件 (その2)

 レディ・メイドと「泉」事件について、ちょっと付け加え。

 2001-06-08に書いたように、デュシャンは「泉」=小便器を「(自分の)芸術作品」とは考えていなかった。ただ、デュシャンがあの小便器を選んだ理由は、「それ自体としてできるだけ価値のなさそうなもの」(椹木野衣『増補 シミュレーショニズム』 p.056)ということばかりではなかったはずだ。

 あの小便器は、オブジェとしても十分魅力的だ。「瓶掛け」そして「パリの空気」も。

「瓶掛けは見ると美しいと思えても、それはまず無味です [*無味だと思います]。断固そうです。それには [はっきりした] 趣味はありません。」
(ジョルジュ・シャルボニエ (北山研二訳):『デュシャンとの対話』、(みすず書房,1997),74頁)

 デュシャンは、このように強弁しているが、「瓶掛け」はただ美しいのではない。ジャニス・ミンクの「マルセル・デュシャン」(p.53)に掲載されたシュルレアリストの展覧会風景の写真を見ると、デュシャンの「瓶掛け」は、オブジェの集められた棚のど真ん中に置かれて他の作品を圧倒している。まさしくシュルレアリスムの「文脈」にぴったりはまっているではないか。

 デュシャンは、本心ではこう考えていたのではないだろうか? ...(私の言葉に翻訳すると)...「けっ、おめーらが勿体ぶって画廊や美術館に飾っている「芸術作品」なんかよりも、この瓶掛けや小便器みたいな工業製品の方がよっぽどカッコイイぜ!」と。

 このことに関連して、フェルナン・レジェの回想として、次のような逸話が伝えられている。1912年、デュシャンはレジェとブランクーシとともに航空博覧会に出かけた。そして、ブランクーシに向かってこう言った。「絵画はもうおしまいだ。一体誰があのプロペラよりも素晴らしいものを作れるというのだ。」...

 実は、1926年にブランクーシの彫刻「空間の鳥」が、ニューヨークの税関で機械部品(プロペラ?!)と判断され、裁判沙汰になるという事件が起きている。このように見ていくと、レジェの回想の内容がなんとなくうまく出来過ぎているような感じがするが、いずれにしても、「大ガラス」とレディ・メイドの発想の根底に、このような認識があったことは十分考えられる。


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2001年7月
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