いもじな日々

−作業記録と雑感−

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2003_12

2003-12-22
『四谷シモン大全』

 『シモンのシモン』、『機械仕掛けの神』を始めとして、四谷シモンのエッセイ、小説、詩を集成した本で、8月頃出る予定だったらしいのだが、まだ出ないみたいだなあ。

2003-12-11
アイスバーン

 朝、出勤の途中で、自転車が滑って転けている若者を二人も見た。この路面状態でノーマルの自転車に乗るとは、或る意味、勇者だよな。(ぷっ

2003-12-10
球体関節人形論 覚書(2)

人形愛の形而上学 (その2)

 まず、先に引用した澁澤の文章の問題点について明らかにしておこう。澁澤は、<人形愛>について、「当初の私の意向では、この言葉は、ヨーロッパで用いられるピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった」と述べる。すなわち、<人形愛=ピグマリオニズム>という規定は過去の話であった、というわけだ。そして、当該エッセイ「人形愛の形而上学」においては、<人形愛>は必ずしも<ピグマリオニズム>と相等ではなく、むしろそれを部分集合として含んだより広い概念として取り扱われる。しかし、その事を明確に述べないために、無用の混乱が生じることになる。

 「人形愛の形而上学」に先立つ「少女コレクション序説」において、澁澤はナルシシズム的人形愛論をほぼ完成された形で提示した(「人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。」)。この「少女コレクション序説」の文脈においては、ギリシャ神話のピグマリオンの伝説はナルシシズム的人形愛の物語として解釈される。私は、この解釈を支持する。

 しかし、「人形愛の形而上学」において人形の精神史を順序立てて論じる際にはこのような解釈は都合が悪い。ナルシシズム的人形観は、あくまでも近代的ナルシシズムに関連付けられないと困るからだ。そこで、澁澤は「人形愛の形而上学」では、<人形愛>という言葉の意味を、世界観を異にする様々な人形観(アニミズム的人形観、魔術的人形観、ナルシシズム的人形観など)を曖昧な形で包括するものに変質させ、さらに、明確な根拠を提示することなく、ピグマリオニズムを魔術的世界観に結びつけてしまった。

人形はしばしば、人形が模倣するモデルの性質を分有すると見なされてきたのである。逆に考えれば、人形のモデルは、人形に対して加えられた虐待や愛撫を、そのまま我が身に感じるはずだった。これが呪いの原理であって、さまざまに複雑な儀式を伴いながらも、この原理そのものは、有史以前から古代や中世、いや、近代にいたるまでも、ほとんど変わるところがなかったのである。わが国でも、藁人形や形代による人形信仰は連綿と行われているし、ヨーロッパの魔術の歴史を通覧すれば、いわゆる「愛の呪い」や「憎悪の呪い」のために人形が使用されたという例は、それこそ枚挙に遑がないほどだろう。ピュグマリオンは、この「愛の呪い」の元祖ともいうべき神話の人物である。

 ところが、その一方で、同じエッセイの中に次のような文章を同居させるのだ。

人形の制作者であるエディソン −(引用者による中略)− の説く性愛上の極端な主観主義、極端なイリュージョニズムは、ミシェル・カルージュが奇書『独身者の機械』で綿密に分析してみせたように、やがては近代的ナルシシズムに特有な「独身者の機械」すなわち快楽と苦痛のオナニー・マシンに帰着すべきものだろう。ダダイストやシュルレアリストの多くが、人体模型やマネキン人形に異常な執着を見せたのも、人形愛の形而上学の最後の燃焼とも言うべき不毛なエロティシズムをそこに敏感に感じ取ったからにほかなるまい。不毛なエロティシズム、―― しかし、それはダイダロスのような、ピュグマリオンのような、昔ながらの工匠あるいは芸術家の比喩だったのである。

 なんとも曖昧で首尾一貫しない論じ方である。私は、この議論の迷宮の中から、「少女コレクション序説」のナルシシズム的人形愛論を救い出したいと思う。

2003-12-07
路面凍結

 本格的な冬だ。

2003-12-06
ALI PROJECT

 ここ二三日、"ALI PROJECT"の「未来のイヴ」が頭の中で鳴っている。エンドレスで。(笑) 不思議な魅力を持った曲だ。

 ALI PROJECT(アリ・プロジェクト)は、宝野アリカ(Vo、作詞)と片倉三起也(作曲、編曲)の二人から成るユニット。

 しかし、残念なことに、ALI PROJECTのCDを出しているビクターエンタテインメント株式会社は、11月13日からCCCDに移行していくそうだ。「未来のイヴ」を収録した MAXIシングル「月蝕グランギニョル」は11月05日発売だったから、辛うじてCCCDの魔の手から免れたわけだ。だが、これからどうなるんだ?

2003-12-02
球体関節人形論 覚書(1)

人形愛の形而上学 (その1)

 澁澤龍彦は、彼のエッセイで<人形愛の形而上学>という言葉を明確に定義しないまま使っている。しかし、<形而上学>という哲学用語が如何に鵺的なものか、西洋哲学史をざっと眺めるだけで知ることができるだろう。澁澤の言う<人形愛の形而上学>の意味を明らかにするためには、彼の議論を踏まえた上で、この言葉にまとわりついている曖昧さや衒学趣味を洗い落とす必要がある。この言葉の澁澤的意味を私は以下のように規定する。

「<人形>を媒介として立ち現れる自己(人間)と世界との存在に関する観念の体系」、要するに、「人形観の背後に在る世界観」。

 このような規定の根拠となる澁澤の文章を引用しよう。

 そして人形愛の形而上学は、必ずしも新たに創作された現代の人形と無縁ではないにせよ、むしろ素朴なアニミズム的信仰の影をとどめた古い人形の方にこそ、かえって明瞭な形で読みとれる場合が多いのである。私が愛するのは、そのような源泉に遡った人形の観念、現に出来あがった人形に透けて見える、古い人形の観念なのだ。
 「人形愛」という新造語を初めて文章のなかで使ったのは、たぶん私だろうと思われるが、当初の私の意向では、この言葉は、ヨーロッパで用いられるピグマリオニズムの翻訳語のつもりだった。ピグマリオニズムは公認済みの心理学用語であると同時に、私の考えでは、この言葉の原因になったギリシャ神話の主人公の野心のように、象徴的にもせよ形而上学への志向をふくまなければならないものなのである。むしろ、形而上学というよりも、むしろ魔術といった方がピッタリするかもしれない。
 
澁澤龍彦 「人形愛の形而上学」
澁澤はこの文章の第一段落において、「素朴なアニミズム的信仰の影をとどめた古い人形」という具体的なイメージを示しつつ、<人形愛の形而上学>を<古い人形の観念>という言葉に関連付けている。また、第二段落では、<ピグマリオニズム(としての人形愛)>という概念は、「象徴的にもせよ形而上学への志向をふくまなければならない」と述べ、さらに続いて、「形而上学というよりも、むしろ魔術といった方がピッタリするかもしれない」と言い換えている。これらのことから、澁澤にとっての<人形愛の形而上学>とは、人形観に反映された或る種の世界観を意味することが判る。 (私は上掲の澁澤の議論の展開、特にピグマリオニズムについての考え方に対して異論を持っているが、それとこれとは別問題である。)

 一方、志賀信夫氏は、「澁澤龍彦におけるピュグマリオニスム」(『TH叢書No.19』, pp.50-57.)で次のように述べている。

澁澤のいう「人形愛の形而上学」とは、なぜこういう人形 (引用者註:人形の裏側、裸の人形、構造を見せる人形) を愛するかを考えることであり、そこから、人形のエロティシズム、人形への愛と性と死、呪いと人形、人形と人間の関係、欲望などを考えるということなのだ。

 この定義が著者独自の定義だというのなら理解できないわけではない。しかし、少なくとも、この定義は澁澤のものではない。このことは、上に引用した澁澤の文章に照らしてみれば明らかだろう。

 この他にも、「澁澤龍彦におけるピュグマリオニスム」には、疑問な点が多く見られる。その詳細については、追々書いていくつもりだが、一つ言えることは、澁澤の遺した論点を受け継ぐためには、一旦彼と真正面から対峙すること、すなわち、徹底した批判的検討に基づいて、その意義と限界を明らかにする作業が不可欠である、ということだ。その作業を行わずに、迷宮の様相を呈している澁澤の議論をうわべだけ取り繕って纏めようとすれば、何処かで無理をしなければならなくなる。


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2003年12月
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