いもじな日々

−作業記録と雑感−

最新 Index  

2004_06

2004-06-27
討論

批評の根拠について「paint/note」(2004-06-07)への応答

 少しは理解したつもりだったのですが、また分からなくなりました。もう一度、疑問点を整理してみます。

1.作品の独立性について

まずは、引用から。
作品と作家はまったくの他人です。そうでないかぎり、作品は作家に従属した奴隷でしかなく、美術作品としての一歩を踏み出しえません。  (「paint/note」(2004-03-31)■ 美術の条件)

 作品とは、本来原理的に作者から独立しているものなのでしょうか? それとも、作者がその様に扱うことによって初めて独立するのでしょうか? 以下に引用する文章からは、前者のように読みとれます。

画面中央に赤い円が描かれている時、それを太陽の表象とみるか、日本の国旗と見るか、単なる幾何学模様と見るか、血痕と見るかは事前に確定できません(作品と作家はまったくの他人)。それがどのように受け取られるかは、観賞された際の受け手次第です。意味、あるいは価値は事前に確定できません。受け手に受容されてそれは初めて「意味」となるのであり、しかもその受容のされ方は制御できないのです。  (「paint/note」(2004-05-21))

 作者の創作意図を鑑賞者が受け取ることが原理的に不可能であるならば、展示された作品(インスタレーションを含む)から作者の意図を読み取る事もまた不可能になります。その様な状況下で、作者が作品を独立させているか、あるいは「奴隷化」しているかを知ることは、どのようにして可能になるのでしょうか? また、このような考えを前提とするなら、作品を「奴隷化」すること自体が、そもそも不可能なのではないでしょうか?

 一方、後者の(作者の扱いによって初めて独立すると考える)場合、作者に対して作品を独立させるように取り計らうことを要求する合理的な根拠はあるのでしょうか?

 そもそも鑑賞者の否定的な評価というものは、作者が作品の評価を鑑賞者に委ねたことの結果としてあるわけで、その時点で既に作品は作者の手から離れていることを意味しているのではないのでしょうか?

 また、上に引用した文章の思想からすれば、例えば作者が作品制作のコンセプトを言葉で主張することは、作品の独立性に対する干渉となるように思われますが、このようなことは許されるのでしょうか? (「現代美術」を想定した疑問です)

2.作品評価の根拠について

 「paint/note」では、美術作品の評価において「批評性」の有無が重視されていますが、その批評性の有無を判断する何らかの(他者と共有している)基準はあるのでしょうか? もし無いのであれば、それは単なる印象批評と何処が違うのでしょうか?

 そもそもこの「批評性」なるものは、一体どのようなものでしょうか? 「批評」が「はてなダイアリー」の定義のように「ある事物・事象についての、何らかの思想・主張を持つ者による個人的見解の発露(意見提示)」ならば、これはまさしくコミュニケーションの一要素です。そして、或る批評の意図を知ることが原理的に不可能ならば、それに対する「批評」はいかなる意味を持つのでしょうか?

 仮に「批評」の連鎖が<美術>活動の本質だとしても、それを社会的・経済的に支える装置(画廊や美術館やジャーナリズム)が存在します。そして、現実に、或る作家や作品に対する評価が刻々と下されています。私が疑問に思うのは、その評価基準です。作品(あるいは批評)の内容が「相互理解」不可能ならば、そのような評価基準など幻に過ぎません。とするなら、行き着く先は「権力ゲーム」です。そして批評は、権力ゲームの手段となります。

3.「美術の進歩」について

 先に私が示した「脳の発達」モデルについて。

イメージは明解で理解しやすいのですが、このモデルは実際の美術史の流れに当てはめるには難があります。美術史の展開においては、有史の初期段階において、すでに極めて高い抽象性を帯びた作品が登場しています。古代にラスコー洞窟壁画のような達成をみせている美術史の領域において、以降の流れを発達と考えるのは実情に沿いません。美術史の「脳」はその成立の初期にすでに成熟しているのです。(「paint/note」(2004-06-07))
本モデルは、批評の連鎖の進行を表現したものです。「ラスコー洞窟壁画」自体は基本的には不変なのでしょうが、それに対する批評は時代と共に豊富になっていきます。新たな批評とは、これまで無かった視点や解釈を新たに与える事でしょう。私はこのプロセスを「進歩」と呼び、それを是とする思想を「進歩主義」と呼びます。

4.サブカルチャーの評価について

そもそも「アウトサイダー・アート」や「サブカルチャー」といった言葉自体がハイ・アートを起点として措定されており、近代的<美術>制度を前提としなければ、それに対するカウンターとしての「アウトサイダー・アート」や「サブカルチャー」といった価値規定は成立しません。そういったものの評価は、近代的<美術>制度と相補的なものです。(「paint/note」(2004-06-07))

この点に関しては、同意します。私は、「サブカルチャー」は、近代的<美術>制度とは異なる価値観で動いている領域だと考えます。したがって、「サブカルチャー」の達成を<美術>の視点から評価しただけでは、正当な評価とはなり得ません。

 現在の「球体関節人形」という創作分野は、非常に多面的な、「境界領域」と言うべきものであり、芸術(美術)や工芸や玩具(愛玩品)製作といった様々な領域に面しています。件の「球体関節人形展」はそれなりにその事を意識して監修されていたと、私には感じられました。

 また、人形制作、特に球体関節人形の制作はナルシシズムに密接に関係しています。鑑賞の場合も同様です。したがって、人形作品を用いた表現としては、濃厚なナルシシズムによって構成されたインスタレーションも有り得ると、私は考えています。

 もちろん、このような表現に対して嫌悪感を感じる人もいるかもしれません。私は、そのような感想を含めて様々な受け取り方があり得ると考えます。しかし、批評が或る「客観的な基準」を伴っている場合には、私はその根拠を問いたいと考えます。

2004-06-19
岡林信康 「チューリップのアップリケ」

 音盤データを纏めてみた。(岡林信康「チューリップのアップリケ」(1968)収録音盤

−−−
[書籍]

−−−
[メモ] ベルメール&人形関連

2004-06-05
自己否定と自己主張

 ミシェル・フーコーほか 『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫)読む。この中のウィリアム・E・ペイドン「謙虚の劇場と疑念の劇場 −砂漠の聖者たちとニューイングランドの清教徒たち−」の最後のくだりは凄い。清教徒は、カトリックにおける司祭への告解を告白の日誌に置き換えた。自らの行為と心の中の罪を詳細に書き記す自己否定的な実践が、やがて自己を観察者と被観察者とに分裂させ、そして前者は密かに「神」のような位置を占めるようになっていく!

(・・・)観察者たる「私」は、ロマン主義時代や近(現)代の認識力に富む自己の出現を、(・・・)予期させるかもしれない。それは、(・・・)自身が観察しているのを観察し自らの話作りを観察する、疑念にみちた認識的自己に相当するかもしれない。
清教徒の意識は、「私であること」と暗黙の自己独善にみちみちており、だから清教徒の意識の自己卑下なるものは意識自らの自己主張の避けえぬ影ではないかと思われる。

 神の前での自らの主体性を徹底的に否定し、自己の罪深さを開示するための実践が、全くの反対物を産み出す。 ...この洞察には、もはや言葉もない。

 ただ、一つだけ書き記しておきたいのは、西洋思想における<主体>というものの極めて「西洋的」な性格だ。構造主義が否定的に扱った<主体>とは、そのようなものであって、我々日本人がその背景を十分把握しないまま、その結論を鵜呑みにすると、とんでもない誤りに導かれるような気がする。

−−−
[メモ] ベルメール&人形関連

2004-06-03
討論用LAYER設置

 2004-05-16付けの議論に「paint/note」から再び応答を戴いた。

独り言ということでしたので、お返事するかどうか悩んだのですが、応答させて頂きます。

 「独り言」はこのページ「いもじな日々」にとって骨絡みの形式となってしまっていて変更するのは苦しいが、なんとか議論の相手に失礼にならないようにしたい、ということでいろいろ考えた結果、通常の"LAYER"の他に、Tableタグで括った"討論用のLAYER"を設けることにした。

美術と自意識「paint/note」(2004-05-21)への応答

1.<美術>の「進歩」について

 まずは、引用から。

作品が(複数の)他人によって観賞され、それが別の批評なり作品なりを生み出して行く行程は、直線的な「進歩」ではなく錯綜した編み目状のものです。
そもそも、時間軸上で後から作られた(過去の批評として現れた)作品は、あくまで別の角度からの批評としてあるだけで、進歩ということはありません。
続いて、「作品は作家を消しうるか」(2004-05-07)から。
少々大袈裟な言い方をすれば、世界で無数に書かれている絵は、実は架空の1枚の絵の無限の更新だと考えることができるかもしれません。逆に、一枚の絵は、無数に「その続き」の絵に分岐していく、ある過程の1点だとも言えます。また、そのような無数の分岐(批評)を生み出すような作品を「古典(マスター・ピース)」というのだと思います。
 ここで、一つのモデルとして「脳の発達」を考えましょう。
 発達過程にある脳の内部では、神経細胞がアメーバのような触手を伸ばして互いに絡み合い、シナプスという継ぎ目を形成しながら情報伝達回路を張りめぐらしていきます。このようなプロセスを我々は、「発達」と呼びます。同様に、「架空の1枚の絵」の内部で様々な作品が批評によって生じ、互いに連結していく過程を時間軸に沿って眺めれば、明らかに不可逆的な過程であって、その過程に対して積極的な価値を認める思考を「進歩史観」と表現しても差し支えないと考えます。

 科学技術研究の展開は、ミクロ的には多くの試行錯誤と偶然の発見を含む錯綜した実践です。しかし、これをマクロ的・長期的に見ると「進歩」となります。科学は物質的世界を対象としているため、理論内部の論理的整合性のみでは不十分であり、実験的検証に基礎を置く「科学的方法」を獲得することによって、初めて「科学」になりました。それでも科学史で言うパラダイム・チェンジを想起すればわかるように、「直線的進歩」というほど単純なものではありません。このことは指摘されている通りです。

2.<美術>制度について

 再び、引用から。

画面中央に赤い円が描かれている時、それを太陽の表象とみるか、日本の国旗と見るか、単なる幾何学模様と見るか、血痕と見るかは事前に確定できません(作品と作家はまったくの他人)。それがどのように受け取られるかは、観賞された際の受け手次第です。意味、あるいは価値は事前に確定できません。受け手に受容されてそれは初めて「意味」となるのであり、しかもその受容のされ方は制御できないのです。
 我々は、我々が所属する社会の規範や文化から自由ではありません。同時に、一方では、各個人の意識自体は共有できないため、<コミュニケーションのズレ>が必然的に生じます。この問題は、ここで扱うには複雑過ぎますが、いずれにしても、「コミュニケーションが全く不可能」というのは、我々の生きている現実から遊離した判断だとは思います。

 ただ、仮に上の引用のような考えを無制限に拡張するなら、美術活動が依拠すべき相互理解の基盤を失うことになります。残るのは、アナーキーな自己表出と印象批評だけでしょう。それを避けるための一つの手段は、美術制度を批評活動の網目状連鎖として構成することです。批評は論理に基づいていますから、その論理をたどりながら、批評を連結させていくことが可能になるわけです。そのように理解するなら、「paint/note」における議論は一貫していると評価できます。

 しかし、ここで新たな疑問が湧いてきます。その様にして形成される<美術>制度は、その制度の外で実践される創作活動、例えばアウトサイダー・アートやいわゆるサブカルチャーをどのように扱うのか、という疑問です。 ...例えば、日本のサブカルチャーの領域で既に確立された表現をそのまま<美術>という「ハイ・カルチャー」な領域に持ち込んで貿易差益を稼ぐような行為に対して有効な批判を行い得ないという、この制度の現実があります。それは、異なる土壌で生まれる表現を生のままで正当に評価することができないこの制度の問題点を端的に示しているように、私には感じられます。

3.自己の一貫性について

 再々度、引用から。

僕の立場としては、過去の自分と今の自分とが或る一貫性を持って存在してきたと認識していることを「認められないにもかかわらず」、過去の自分と今の自分の双方に対して「責任」をとらざるをえないと考えます。
「日常生活の実践感覚として」、過去の自分の言動に「覚えがない」ことは良くあります(アルコール摂取時を想起)。にもかかわらず、「私」は覚えのないことにも責任をとらなければなりません。また、覚えのあることでも、環境や立場の変化によって価値観が変わることもあります。にもかかわらず、その一貫性のなさによって生じる諸々のことを、「私」は引き受けなければなりません。恋愛において、恋をする前と、恋をしている最中と、恋が冷めたあとでは、それぞれの場面での「私」は、同一人物とは思えないものです。しかし、にもかかわらず、それらのバラバラな「私」を「事後的に」私として引き受けざるを得ないのです。
 「バラバラな「私」を「事後的に」私として引き受けざるを得ない」というのは非常に興味深い感覚ではあります。それはともかく、このような事柄は主観的な経験の次元の問題なので、論理的操作によって反論することは原理的に不可能です。しかし、主観から出発する議論が、現実に直面する問題に対する解答を与えようとすると、必然的に主観的体系外部の要素を持ち込まざるを得なくなります。それが、この文章で言う「責任」です。この「責任」の由来する起源が何なのかを突き詰めて考えれば、上の文章の内容が私の議論の射程内にあることが判るのではないかと思います。

 重要なのは、記憶が飛ぼうが、価値観が変わろうが、「私」は「私」である、という我々が直面している現実です。
 また、表現活動を行うことによって辛うじて自己を生に繋ぎ止めている者、あるいは逆に自己自体が桎梏であるような退っ引きならない状況に置かれている者。そういう者たちにとって、「自己」とは酔っぱらって記憶をなくしたり、寝たりするだけでチャラにできるものではないでしょう。私はそのような者たちが自己に密着した表現を行うことは、或る意味必然だと思います。そして、或る制度が、そのような表現を評価することができないのなら、それはその制度の限界という他はない、と考えます。


最新 Index  

2004年6月
日曜鋳物師のページ