いもじな日々

−作業記録と雑感−

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2004_07

2004-07-26
"One of These Days"

 夜8時頃から1時間以上に渡って、札幌市内が雷雲に包まれた。ひっきりなしの稲光と雷鳴。地上に落ちる稲妻、横に伝播する稲妻。そこに龍の姿を見たのは私だけだろうか?

2004-07-25
北海道の夏

 ここのところ少し暑いが、北海道ネイティブではない私としては、「この程度なら天国だろ」と思う。

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[書籍]

 フロイト著作集(人文書院)やフロイド選集(日本教文社)には、誤訳が結構多いらしい。今のところ日本語訳では上記のちくま学芸文庫版2冊に定評があるようだ。

2004-07-21
残留疲労

 ああ、しんど。

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[書籍]

 良くできた入門書というのは、それだけで解ったつもりにならない限りは有意義だと思う。

2004-07-20
追記

「作者の意図とその理解について」(2004-07-18)一点訂正

訂正前:その過程で直面した疑問を投げ掛けただけです。
訂正後:その過程で直面した問題を疑問として投げ掛けただけです。

 「独り言」の部分だったら、この手の文法上の問題なら知らん振りして訂正するのだが、さすがに討論用レイヤーでは迷惑をかけてしまうから。

 この他にも微妙に怪しい文章があるのだが、意味は(たぶん)通じるからこのままということで。

2004-07-18
討論

作者の意図とその理解について「paint/note」(2004-07-06)への応答

 私は、対話の意義とは、他者の視点を媒介として自らの思考を突き詰めていくことにあるのだろうと思います。そのためには、まず相手の論理を可能な限り理解することが重要であると考えています。自分なりに理解したその論理が首尾一貫していれば、最終的にその考えに同意しなかったとしても、自らの思考を一歩進めたことになります。

 この度の一連の対話では最初の疑問が最後まで残りました。

筆者の作品論によれば、「作者の意図」を評すること自体が無効ではないのだろうか? (「いもじな日々」(2004-05-03))
しかし、今回(2004-07-06)の「現実的な書き方」によって、とりわけ今回初めて登場してきた「文脈」という概念によって、ある程度は理解できたように感じます。

 さて、私の立場に対して若干の誤解があるようなのでここで明確にしておきます。

(1) 私は、美術を批評の連鎖として捉える考えを「一つの考え」として認め、その論理を自分なりの理解の中で矛盾なく再構成しようと希望していますが、私はその考え自体には同意していません。批評の連鎖として捉えられた美術を私の考える美術と区別するために、前者を<美術>と表記して区別しています。
 私は、美術作品は作者の表層意識と深層意識との両方を反映していると考えます。すなわち、意識された創作意図も、作者自身に気付かれない願望や欲望も共に作品に刻印されます。さらにこれに、身体システムに影響される漠然とした情動も加えてもよいかもしれません。
 作者は自らの精神と身体との総体によって作品を創り、そしてその内容を鑑賞者も自らの総体によって受けとめる。これが、私の考える美術の在り方です。したがって、私は作品が作者自身の手によって作られることを重視します。私は、デュシャンの(物体としての)「泉」をデュシャンの作品とは認めません。また一方で、私は、作品の表現内容が無媒介に作者の欲望に直結していると評する傾向には批判的です。

(2) 既に述べたように、我々は、我々が所属する社会の規範や文化から自由ではありません(「いもじな日々」(2004-06-03))。我々は、社会に属する他者とのコミュニケーションを通じて自らを構成してきたのです。ここに我々の相互理解の基盤があります。
 同時に、一方では、各個人の意識自体は共有できないため、<コミュニケーションのズレ>が必然的に生じます(「いもじな日々」(2004-06-03))。このズレは、無視できる程度に軽微なものもあれば、行為者(発信者)の意図が正反対に受け取られるほど顕著な場合もあり得ます。
 しかし一般的には、我々はこのようなズレを常に緩衝しながら、なんとか(のたうち回りながらも)生きています。これは、機械を設計し製作する場合に似ています。機械の設計図では、或る部品の寸法が指定されますが、厳密に言えば、その寸法通りに部品を製造することはできません。必ず或る誤差が生じます。しかし、我々は、それらの誤差を含んだ部品から機械を組み上げて、なんとか動作させているのです。
 作家の意図が厳密に正確に鑑賞者に伝わることはあり得ないとしても、だからといって「作品と作家はまったくの他人」という立場を私はとりません。むしろ優れた作品には、作者の総体が刻印されていると考えます。例えば、「モナリザ」が我々の心に働きかけてくるのは、もしかすると作者自身は意識しなかった「母なるもの」に対する憧憬と畏れがそこに表現されているからかもしれません。また、これは半ば冗談ですが、デュシャンがモナリザに髭を描き加えることができたのは、彼が「シスコン」だったからかもしれません。

(3) 私は以前、「作品と作家はまったくの他人」という考えに対して以下の文章を書きました。

仮に上の引用のような考えを無制限に拡張するなら、美術活動が依拠すべき相互理解の基盤を失うことになります。残るのは、アナーキーな自己表出と印象批評だけでしょう。 (「いもじな日々」(2004-06-03))
ここで私は、「創作活動」あるいは「創作」という言葉を使わずに「美術活動」という言葉を使っています。この美術活動の内容を具体的に述べたのが以下の文章です。
仮に「批評」の連鎖が<美術>活動の本質だとしても、それを社会的・経済的に支える装置(画廊や美術館やジャーナリズム)が存在します。そして、現実に、或る作家や作品に対する評価が刻々と下されています。私が疑問に思うのは、その評価基準です。作品(あるいは批評)の内容が「相互理解」不可能ならば、そのような評価基準など幻に過ぎません。とするなら、行き着く先は「権力ゲーム」です。そして批評は、権力ゲームの手段となります。 (「いもじな日々」(2004-06-27))
さすがに私でも、「既に死んでいる作家と、作品を通じて「相互理解」する」ことができるとは考えていません。作家は、差し当たりは今生きている観客に自らの作品を提示し、その評価を受けるわけです。そして、作品を提示する側とそれを評価する側に何らかの共通の評価基準(私はそれを「相互理解の基盤」と書きました)がなければ、批評を含めた美術活動自体が、アナーキーな自己表出と印象批評のみとなり、ひいては権力ゲームになると言ったわけです。

 したがって、以下の文章の内容は私の考えではありません。

「いもじな日々」では、作品を見て「作家の意図」を読取ること=作家と「相互理解」することに重点を置いています。そこでは「作家の意図」が「正解」となります。つまり一定の情報・教養と「合理性」を''共有''することで、一つの「正解」が目指されることになります。 (「paint/note」(2004-07-06) ■ 応答)
私は、「美術は批評の連鎖である」という命題と「作者の意図が鑑賞者に伝わることはあり得ない」という命題から、可能な限り論理を組立ようとし、その過程で直面した問題を疑問として投げ掛けただけです。既にお判りでしょうが、私が「相互理解の基盤」と呼んだものと、今回初めて出された「文脈」という概念とは、ほぼ同じものです。

 また、以下の文章に対しては、上記(1)および(2)の文章を対置させることができます。 

僕は、作品は作家の意図を超えてあるものだと思います。ありていに言ってしまえば、作品を見て(入試問題を解くように)「正解」を目指してしまうのは、魅力的な行為とは思えません。(「paint/note」(2004-07-06) ■ 応答)
 既に述べたように、私は自らの総体をもって作品に対峙したいと考えています。その段階では「正解」など在りようがないでしょう。其処で重要なのは「私にとっての真実」です。したがって、このレベルでの他の鑑賞者の感想や主張に対しては批判を加える気はありません。
 しかし、感動を受けた作品やその作家に関しては、その感動の要因に対する関心が生じる場合があります。その様な特定の場合には、作者の足跡を追跡し、時代的背景を調査し、作品の成立過程の詳細な分析から作者の創作意図を割り出し、さらにはその深層の欲望を、自らの心身をシミュレーションの場とすることを通じて把握する。そのような検討をしたいと考えています。
 そして、ある作家の創作意図を苦心惨憺して割り出そうとしている私には、以下の言葉が簡単に出てくることは理解できません。
そもそも、僕がこの討議で一貫して否定したいと思っているのは、最初からそのような「作家の内面や心理の物語」と、その「共有」だけを意図して、作品を作ってしまうような「作家」の側の意識です。(「paint/note」(2004-07-06) ■ 応答)
こういった状況への批判という意味もあって、僕は「作品と作家は無関係」と書いたのです。作家と観客が「相互理解」してしまう−正確には、相互理解した''つもり''になってしまう状況が、むしろ一般的だからこそ、あえて「それは作品の経験とは呼べないんだ」と言いたいわけです。(「paint/note」(2004-07-06) ■ 応答)
この主張に対しては、「私は別の経験(受け取り方)をした」と述べるに留めます。

2004-07-17
暫しの休息

 札幌市立図書館。収穫あり。文献情報では一行のものでも、その発見に至る過程では様々な紆余曲折がある。

2004-07-12
リンク修正

 昨日、一昨日に張ったリンクがメタメタ。やっぱ、疲れとるわ。

2004-07-11
逃避モード

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[メモ] ベルメール&人形関連

2004-07-10
休み無し (-_-;

 田崎英明 『思考のフロンティア ジェンダー/セクシュアリティ』(岩波書店, 2000.9.21)読了。個人的な覚書のような書き方で、実に理解しにくいのだが、所々に目の覚めるような論点が見られて、放り出す気にはなれなかった。

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[書籍]

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[メモ] ベルメール関連

2004-07-09
「デュオU&U」

 予想以上の出来。辻加護に「大阪ラプソディー」を唱わせることを思い付いた奴は偉い。

CD 「デュオU&U」/ W (Amazon.co.jp

  1. 恋のバカンス (ザ・ピーナッツ)
  2. サウスポー (ピンク・レディー)
  3. 渚の「……」 (うしろゆびさされ組)
  4. 白い色は恋人の色 (ベッツィ&クリス)
  5. 大阪ラプソディー (海原千里・万里)
  6. 待つわ (あみん)
  7. 淋しい熱帯魚 (Wink)
  8. かけめぐる青春 (ビューティーペア)
  9. 渚のシンドバッド (ピンク・レディー)
  10. 恋のインディアン人形 (リンリン・ランラン)
  11. 好きよキャプテン (リリーズ)
  12. センチ・メタル・ボーイ (キララとウララ)
  13. お誂え向きのdestiny (Key West Club)
  14. Give Me Up (Babe)
  15. 情熱の花 (Passion Flower) (ザ・ピーナッツ)

2004-07-06
『ハンス・ベルメール写真集』復刊決定

 リブロポート版のアラン・サヤグ 『ハンス・ベルメール写真集』が復刊されることになった。「イノセンス」のお陰だな。

2004-07-04
激務でヘトヘト。

 とか言いつつ、こんな文章を書いている。まあ、暫しの心身の休息ということで。

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覚え書き:

 (1) 「国際標準」だの「近代」だのといった概念の裏側にある西洋的価値基準を、いったん根底から疑ってかかる必要があるのではないだろうか? その上で、優れた点があればそれを認めればよい。逆説的な言い方になるが、他者の価値基準を無批判に受け入れる姿勢は、「近代」的でも「西洋」的でもない。

 (2)ノーベル賞の歴史を見ると、それが「彼ら」(西洋)のものであったことが良く分かる。見方を変えれば、ノーベル賞はスウェーデンという国の文化的・政治的な<武器>でもある。

 (3)浮世絵も根付けも「高尚な芸術」ではなかったが、紛れもなく日本の文化だった。必要以上に有り難がるものでも見下すものでもない。ただ、それらが人々の生活の営みのなかで生み出され使われたものだということを認識する必要はある。

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[書籍]

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 十川幸司 『思考のフロンティア 精神分析』(岩波書店, 2003)読了。ごく偶に、著者の論述のリズムと自分の思考のリズムが良く合って、読むことが快感に感じられるような本に出会うことがある。この本もその一つだった。


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2004年7月
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